猫日和な青木邸

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猫日和な青木邸

 風が踊った。  風のワルツは杉並木をざあざあと鳴らして、青木邸にお立ち寄りになる周蔵さまたちの到着を教えてくれる。ガス灯輝く馬車には、周蔵さまとお嬢様のハナさまが相席で乗っていらっしゃった。  一足先に人力車で青木邸に立ち寄っている奥様のエリザベートさまは、玄関に明かりを灯してお二人をお待ちになっている。  その様子を外にいる一匹の猫と、杉並木の終わりに対になって建てられた狛犬たちは見守っていた。  何やらハナさまの婚約者ができたとか、できないとか、玄関の広間に集められたお客さまたちはぺちゃくちゃとおしゃべりをしている。周蔵さまが米国行きを決めている矢先にとか、独逸びいきもいい加減にしろとか、なんだかみんな言いたい放題だ。そんなお客さまたちにエリザベートさまが笑顔を浮かべて、鹿のステーキが出来ましたと話しかける。  うるさかったお客はぴたりと静かになって、大食堂へと向かっていくのだ。 「結婚て何かな? 狛犬たち」 「結婚とは、番になることだよ」  黒猫のピーターが狛犬の一匹に問いかける。狛犬はピーターの方を向いて、質問に答えてくれた。 「ハナさまは僕の番のはずだけど……」 「猫が人間と番になれるはずないだろ」  もう一匹の狛犬が、ピーターに突っ込みを入れていた。そんなはずはないとピーターは尻尾をぶんと振って抵抗するが、二匹は何も言わない。 「猫と結婚する人間がどこにいる」  と狛犬。 「ハナ様の結婚相手は独逸の貴族らしい」  ともう一匹の狛犬。 「僕の番はハナさまだ」  とピーター。 「そもそも、ハナさまはご結婚に賛成なの?」 「そうだろうさ」 「もちろん」  ピーターの質問に、狛犬二匹は頷き合う。それは運命的な出会いだったそうだ。独逸貴族のアレキサンドル伯爵は、黒い振袖を着たハナ様に一目ぼれ。その場で共にダンスに誘ったそうだ。  それはいかんと窘めたのは、独逸びいきの旦那様というからまた驚いたものじゃないか。あの旦那様のことだから、すっかりその気になったと思ったのに。 「それで、僕のハナさまは何て言ったんだ?」 「断った」 「断ったらしい」  ピーターの質問に、狛犬二匹は答えてみせる。 「どうして君たちはそのことがわかるの?」 「そりゃあ、守り神だからねえ」 「そうそう、八百万の神様たちの噂話で、なんでも分かっちまうんだ」 「じゃあ、結婚はなしじゃないか」  とピーター。 「でも、ハナさまはずっと伯爵を見ていたそうだ」 「そりゃ、ダンスに誘われて嫌な気分になる女性はいないだろうよ。それが独逸貴族ときたもんだぞ。家柄もぴったり、なんともお似合いな二人なんだが……」 「周蔵さまは、なぜか乗り気じゃないんだよ」 「そう、乗り気じゃないんだ」  やっぱり恋愛結婚を娘にもさせたいのかねと狛犬一同は笑う。もともと、周蔵さまは青木家の婿養子だった。その青木家のご令嬢と離婚し、今の独逸人の奥様であるエリザベートさまと結ばれたというのだから、そこには波乱万丈の物語があったに違いない。  そんな物語を、可愛い一人娘には体験させたくないのだろう。  そんなこんなで話しているうちに、着飾ったハナさまが二階の階段から玄関広間にやってきた。周蔵さまは一緒ではない。久しぶりにハナさまを見て、ピーターはうっとりと眼を細めていた。日本人離れした彫りの深い顔に、くっきりとした目鼻立ちが美しいハナさまは社交界の花。どこに行かれても老若男女が振り返る美女だ。  そんなハナさまをピーターは誇らしく思っている。ハナさまも、ピーターを可愛がってくださる。 「私、ピーターと結婚したいわ」  そう言って、ハナさまは周蔵さまやエリザベートさまを困らせるのだ。今日も今日とて、ハナさまは美しいドレスに身を包み、大食堂へと赴かれる。そんなハナさまを追って、ピーターと狛犬たちは大食堂の窓を覗き込んでいた。  ハナさまが晩餐の席についた思ったら、お客たちがいっせいにハナさまに話しかけてきた。 「伯爵とは、結婚するのかい」 「君も独逸翁のように、独逸一筋なんだねえ」 「日本の殿方も捨てたものではないですよ」  みんなが、ハナさまと伯爵のことを話題に出してくる。ハナさま立ちあがり、思いっきりテーブルを叩かれた。 「私は、まだ結婚いたしません!」  ぴしゃりと言い放った彼女に対して、みんなシーンと静まり返ってしまう。それは、ピーターや狛犬たちも一緒だった。 「気分がすぐれないので、失礼させていただきます……」  こちらを唖然と見つめる客たちを尻目に、ハナさまは大食堂を出ていかれる。その眼に涙が溜まっていることに、ピーターは気がついていた。  蔦型のストレートが美しい青木邸には屋根裏部屋がある。そこはハナさまが一人になれる場所でもあった。  にゃーと鳴きながら、屋根裏部屋の窓をピーターは長い尻尾で叩いてみせる。すると文机に臥せっていたハナさまは、顔をあげてこちらをご覧になった。 「ピーター……」   そっと歪んだ硝子の嵌められた窓を開け、ハナさまがピーターを室内へと招いてくれる。にゃーとピーターは鳴いて、ハナさまにその体をすりつけていた。  本邸のある東京におられるあいだ、苦労が多かったのだろうか。少しばかりハナさまの体が細くなったような気がする。体をすりつけてくるピーターをハナさまはぎゅっと抱き寄せ、床にお座りになった。 「分かってるわ。私ももう二十四歳よ。確実に行き遅れだし、こののまま歳を重ねたら良いご縁もなくなってしまう。でもね、突然独逸に行けと言われても、私はどうしたらいいのかしら。お父さまは丁寧にお断りしてくれたけれど、私とて青木家の娘。きちんとした殿方の所へ嫁がなくてはならないことぐらい分かっているわ……」  にゃあと鳴いて、ハナさまには僕がいますとピーターが教えてあげても、ハナさまは鼻をすんと鳴らしてピーターを強く抱きしめるばかりだ。 「とても素敵な方だったの。金の髪に青い眼の……。グリム童話に出てくる妖精みたいだったわ……。本当におとぎの国に迷い込んだみたいでびっくりした。でも、お父さまが独逸翁だとしても、私にとって独逸は遠すぎる」  私は、お父様たちと離れたくないのよとハナさまは笑う。泣きそうな彼女の顔を見あげて、ピーターはにゃあと鳴いていた。 「大丈夫、ハナさまは僕の番だ。独逸なんかに行かせたりしないよ」 「ピーター、慰めてくれるの?」 「ハナさまは、僕のお嫁さんだもの」 「お前もお嫁に行けなんで言わないわよね……」  いくらピーターが大丈夫といっても、ハナさまとは話がかみ合わない。仕方がない。神代の昔、岩長比売との婚姻を瓊瓊杵尊が断わってから、人間は言霊を理解する能力を失ってしまった。人間には八百万の神々の声も聴こえなければ、その使いである動物たちの声も聴こえない。  人は、人の世界にばっかり閉じこもって、ちっとも周囲を見ようとはしないのだ。 「にゃあ……」  言葉が通じないから、ピーターは鳴く。そうするとハナさまは嬉しそうな表情をするのだ。その表情を見たくて、ピーターはもう一度にゃあと鳴いてみせる。 「うん、大丈夫よ。もっと考える時間を下さいってお父さまにお伝えするわ。私もね、彼のことは気になるの。ただ、少し勇気が欲しいだけ。もう少しだけ、日本にいたいだけ……」  そっとピーターを自分の顔の正面に持ってきて、ハナさまは笑ってみせる。その弱々しい笑顔からピーターは顔を離すことができなかった。  屋根裏部屋でハナさまは眠ってしまった。風邪をひくと困るから小さな体でなんとかハナさまに毛布をかけて、ピーターは階下にある和室へと向かう。洋風建築のお屋敷に和室だなんておかしいと思うかもしれないが、周蔵さまが、ご自身が休まれるために作ったお部屋だ。  そっとピーターのために半分開けられた扉をくぐると、そこには畳が敷かれた部屋がある。周蔵さまは布団の上にちょこんと正座をしてお座りになられていた。周蔵さまの寝床が、ピーターの寝る場所だと仔猫の頃から決まっているのだ。 「ああ、ピーター。見ないあいだに随分と大きくなったなあ。お前ももう、一人前の牡猫か」  つやつやとした毛並みを月光に輝かせるピーターを見て、周蔵さまはほうっとため息をついた。  ピーターがこの青木邸に産み捨てられているところを保護されて早一年。  ピーターを救ったのは、他ならぬハナさまと周蔵さまだった。今夜のように馬車にゆられて青木邸にやって来たハナさまと周蔵さまは、狛犬たちに匿われてカラスに食べられずにいたピーターを見つけて下さったのだ。  ピーターに乳を飲ませ、体温調節ができないピーターのためにあたたかな湯たんぽを用意してくれたのは、ハナさまだった。ハナさまはピーターの育ての親であり、ピーターの大切な番でもある。 「ハナさまを僕に下さい!!」 「そうか。ハナを励ましてくれたか……」  どんなにピーターが頑張って話しかけても、周蔵さまにはにゃーとしか聴こえない。にゃーとピーターはもう一声鳴いて、周蔵さまに不服だと自分の意思を示した。 「さ、ピーター。寒いだろ。こっちへおいで」  そんなピーターの気持ちなど知らず、周蔵さまは布団を開いて、ピーターを懐へと誘ってくれる。 「猫の話も聞いて下さいよ」  にゃーと周蔵さまに文句を言って、ピーターは周蔵さまの脇の下へと納まる。ぐるぐると喉を鳴らすと、周蔵さまが優しくピーターの喉元を掻いてくれた。 「なあピーター。米国に一緒に来てくれないか? 一人じゃ寂しいんだ」  突然、周蔵さまがそんなことを言いだす。布団の中にいるピーターに彼の表情は窺えないが、声から何かを心配しているような様子が窺えた。 「ハナが男だったら、一緒に連れて行けたのにな。女に生まれたばっかりに、年頃になったら家を出ていかなくてはいけない。早く縁談を纏めなければならないことは分かっているのだが、私も結婚で苦労したからな。踏み出せないんだよ。それでも、独逸の青年がハナを気にかけてくれてね、嬉しかったんだが……」  ぷつりと周蔵さまの言葉が途切れる。ピーターはそっと大きな耳を動かして、周蔵さまの言葉を待った。 「私は凄く、その青年が憎らしく思えた……」  ぎょっとピーターは金の眼を見開いていた。ハナさまに求婚した相手が憎いとはどういうことだろうか。それでは、ハナさまの番である自分も周蔵さまに憎まれていることになる。そんなピーターの狼狽にも気がつかず、周蔵さまは言葉を続けるのだ。 「ハナは、私が歳をとってから生まれた一人娘だ。諸外国を走り回る片隅で、ずっとあの子のことばかり考えていたよ。娘はいつか嫁いでしまうのに変だと思うだろ? でもな、あの青年がハナにダンスを申し込むまで、私はハナがずっと私の側にいるものとばかり思っていた。ハナも相手のことが気に入っているらしくてな。でも私のせいか、彼に近づく勇気がないみたいなんだ」  それは周蔵さまのせいではないとピーターは伝えたかった。けれど、いくら話してもにゃーとしか周蔵さまには聴こえないので、ごろごろと喉を鳴らして背中を周蔵さまにすりつけてみせる。 「慰めてくれるのか?」  すると周蔵さまは少し嬉しそうに言葉を弾ませて、ピーターを優しくなでて下さった。  ハナさまはピーターの番だ。でも、ピーターもそれが自分の思い込みであることは、狛犬たちから指摘されて知っている。今はハナさまと一緒にいられるけれど、それは仮初の関係。ハナさまは人間で、いずれは人間の男と結ばれなければいけないのだ。  独身でもいいじゃないかと自由気ままなピーターは思う。お家のことだの。親の顔を立てろだの。結婚しなきゃ一人前じゃないだの。人間は番になることに拘りすぎる節があるのだ。  猫だったら、発情期に気になる相手と一緒になって子を儲けるのが常だが、人間は生涯一人の異性を愛することを強いられる。なんとも奇妙な話じゃないか。それも、好きになった者同士が一緒になれるとは限らないのだ。 「ハナさまも猫になればいいのに」  にゃーとピーターは鳴く。すると周蔵さまは笑い声をこらえながら、ピーターをなでてくれた。その愛撫が気持ちよくて、ピーターは心地よさに眼を瞑る。  今日は人間について難しいことをたくさん考えすぎた。ハナさまとアレキサンドルのことは明日考えよう。むにゃむにゃと口を動かしながらピーターは眠りの世界に落ちていく。周蔵さまの脇の下は、とても温かかった。 「だからさ、そのアレキサンドルがこの那須野が原に来たんだよ」 「ドイツの紳士がハナさまを追って、こんな未開拓の荒野までやって来ちゃったんだよ。汽車に乗って、しかも徒歩で青木邸まで!!」  むしゃむしゃと草を食む鹿の姿がピーターの眼には映りこんでいる。朝っぱらから狛犬たちが煩いと思って庭に降りてきたら、信じられないことを次々と言われてピーターは彼らから視線を逸らしていた。  鹿は、狩りをするために周蔵さまが放し飼いにされているものだ。奥さまはフンが散らかって嫌だというが、何かとこの辺りの話題を話してくれる存在であるため、ピーターは好ましく思っている。何より彼らの肉は美味しい。嫌いになる理由を探す方が難しいというものだ。  ピーターが視線から消したいものがもう一つある。  青木邸の前で、周蔵さまが青年と対峙していた。洋装である彼の服は洒落てはいたが、埃をかぶって薄汚くなっているのがはっきりとわかる。 「ハナさまを僕に下さいっ!」  美しい日本語でそう言って、彼は周蔵さまに頭を下げている。周蔵さまが首を振ると、彼はどこで覚えたのが地面に両膝をつき、土下座を周蔵さまに披露したではないか。ぎょっと周蔵さまは眼を見開き、しゃがみ込んで彼の肩に手を置く。 「表をあげてください。あなたのお申し出はとても嬉しい。でも、娘にも心があるのです。それを、理解してほしい。父親の私には、どうすることもできないのですよ」 「分かっています。一目でいい。彼女に、彼女に会わせてください。ただ一目、帰る前に!」 「それでは未練が残ります。今日は我が別邸にて静かにお休みください。お話は、それからにしましょう」  そっとアレキサンドルを起こし、周蔵さまは彼と共に屋敷の中へと消えていく。そっとピーターは玄関に向かい、彼らの後を追った。周蔵さまに付き添われ、彼は増築されたばかりの浴室へと消えていく。 「アレキサンドルさま……」  ハナさまの声がする。階段の方へと顔をやると、正面玄関へとハナさまがやって来るところだった。ハナさまは唖然と浴槽へと続く廊下を見つめていらっしゃる。 「どうして……ここに……」 「ハナさまを追ってこられてのです」  にゃーとピーターはハナさまに声をかける。ハナさまはピーターを見つめ、こちらへと歩み寄ってきた。ピーターを抱きかかえて、ハナさまは足早に階段へと向かっていく。 「冗談じゃないわ。一夜の夢だと忘れようとしていたのに、あの人はもうすぐ帰ってしまうのに……」  ピーターを強く抱きしめ、ハナさまは今にも泣きそうな声をはっする。ピーターが顔をあげると、潤んだ眼をしたハナさまの顔がそこにはあった。  屋根裏にハナさまはやってきて、ピーターを抱えたまましゃがみ込む。 「駄目よ。会っては駄目……。独逸なんて行けない。駄目よ……」  ピーターの耳朶に、呪文のように独り言を唱えるハナさまの声がする。どのくらいたっただろうか。ハナさまは朝食もとらず、昼になるまでそうやってじっとしていた。使用人やエリザベートさまが心配して様子を見に来たが、ハナさまは食欲がないと昼食も食べないで屋根裏部屋に引きこもったままだった。  どんっと銃声があたりに木霊するまでは。 「なに?」  物思いに沈んでいたハナさまは、その銃声に顔をあげる。そっとピーターを放して、ハナさまは窓から外を覗いていた。ピーターも窓辺に跳び移り、外の様子を見つめる。  周蔵さまが馬に乗り、猟銃を構えていらっしゃった。その隣には、同じく馬に乗ったアレキサンドルの姿がある。どんっと周蔵さまが銃を撃つ。鹿の悲しげな鳴き声が聞こえて、周蔵さまが獲物を仕留めたことがわかった。  そんな周蔵さまにアレキサンドルはぴったりと従者のように寄り添っているのだ。日本人と独逸人という異なる人種の組み合わせなのに、ピーターの眼には二人が仲の良い父と息子のように映った。周蔵さまはアレキサンドルに得意げになって微笑んでみせる。すると彼もまた、安心した様子で周蔵さまに笑みを送ってみせたのだ。  いつのまに、二人はこれほどまで仲がよくなったのだろうか。二人が何を話したのかピーターは知らない。けれどお互いを信頼していることはよく分かった。  獲物のもとへと、二人の男たちは馬をかけて向かっていく。窓から二人がいなくなるのを見はからって、ハナさまはピーターを抱きかかえ、屋根裏部屋を後にしていた。  お屋敷の外れにある雑木林からは、馬の駆ける音と二人の男性の楽しそうな声が聴こえてくるばかりだ。ハナさまは雑木林を駆け抜けて、その声を追う。すると、木々の間から馬に乗る周蔵さまとアレキサンドルが姿を現した。 「お待ちください! 周蔵さま!」 「いい鹿が捕れた! 君のお陰だ! 今日は、鹿肉で盛大な晩餐を開こうじゃないかっ!!」 「あの……。ハナさまは大丈夫でしょうか……。調子が優れないとかで……」 「さあ、誰のせいかな……」 「申し訳ありません」  ゆったりと馬を進める二人の会話が途切れる。周囲に冷たい空気が満ちて、紅葉した葉がそんな二人の周囲を舞った。舞う葉を眺めながら、アレキサンドルは口を開く。 「綺麗だ……。こんな美しいものがある場所から、私はハナさまを連れ去ろうとしていたのですね……」 「そうだね……。君の申し出は嬉しいが、ハナは日本を愛している。半分は独逸人の血が流れているが、ハナは日本人でもあるんだよ。それでも、ハナを連れて帰りたいかい?」  周蔵の言葉に、アレキサンドルは静かに首を振っていた。 「あれは、一夜の夢でした。着物姿のハナさまは、それはそれはお美しかった。そのハナさまを想えるだけで、私は幸せです」 「君のような息子が欲しいよ……」 「僕も、周蔵さまのような父を持ちたかったです」  はらはらと舞い落ちる紅葉を眺めながら、二人は静かに会話を交わす。それは、まるで親子のように親しみのこもった会話だった。 「あの人が息子だったら、お父さまは幸せだったでしょうね……」  ハナさまが口を開く。ピーターが顔をあげると、ハナさまは仲睦まじく紅葉を見つめる二人を、羨ましげに眺めていた。 「私が、お父さまの息子だったらよかったのに。そしたら、ずっとお父さまと一緒にいられるのに……。日本にずっと留まっていられるのに……」  ぎゅっとピーターを抱き寄せて、ハナさまはしゃがみ込む。ごめんね、ピーター、少し濡れちゃうかもとハナさまは断って、静かに涙を流し始めた。 「分かってるの。あの人のことが好き。会ったころから、ずっとあの人ことばかり考えてる。でも、お父さまと離れたくない。この那須野が原の美しい光景と別れたくない。お母さまに叱られない日常なんて考えられない。変わるのがね、恐いの。ずっとずっとここにいたいのに、心はどんどんあの人に惹かれていく。ずっと、ここにいたいのに」 「じゃあ、ここにいればいいよ、ハナさま」  ピーターは猫の言葉ではなく、『人の言葉』でハナさまに語りかけていた。ハナさまはぎょっとして、ピーターを見つめる。 「ずっと、僕の番でいればいい。ハナさま……」  ハナさまの顔を覗き込み、ピーターは『人の言葉』で彼女になおも語りかける。いつもは人間をびっくりさせたくないから猫の言葉しか話さないが、今日は特別だ。ピーターはぴょんとハナさまの腕から跳び下りて、人の姿をとっていた。人間になったピーターは黒髪を後方に流した、なかなかの好青年だ。その甘い容姿についた二つの眼が、ハナさまに向けられる。 「ピーター……」 「進むことが嫌なら、ここに留まりましょう。私が、ハナさまの番になります。そうすれば、この那須野が原とも周蔵さまとも別れることはない。ハナさまはずっと、ここにいられます」  顔の脇に生えた猫耳をピコピコと動かして、ピーターはハナさまに微笑んでみせる。きょとんとハナさまは大きく眼を見開いて、それからおかしそうに笑い始めたじゃないか。 「なにが、おかしいのですか?」 「そうね、あなたが旦那さまになってくれれば、きっと毎日が楽しいわ」 「じゃあ、私と」 「ごめん、それは出来ない。だってあなた猫じゃない。独逸人より大冒険になっちゃう」 「猫では、いけないのですかっ!?」  どんと自身の胸を叩き、ピーターは大声をあげる。ピーターがハナさまを想う気持ちは本物だ。種族の違いなど、易々と超えてみせる。たとえ周蔵さまにこの身を引き裂かれようとも、ピーターは目の前の女性への愛を貫く自信があった。自分を助けてくれた彼女のためならば、那須野が原の荒れ地を肉球のついた前足で耕すこともできる。彼女の好きなこの大地で、自分は彼女と共に生きていくのだ。  そんなピーターをハナさまはきょとんと見つめてくる。それから彼女はそっと眼を瞑って、微笑みをピーターに向けてきた。 「そうね。想われてるのに、応えないなんて卑怯だわ。ピーターにはちゃんと自分の気持ちを伝えられたのだから」 「ハナさま……」 「誰だっ!」  周蔵さまの声がする。ピーターはとっさに人から、猫の姿へと戻っていた。このままハナさまをもらう直談判をしてもいいが、今はアレキサンドルも側にいる。  馬に乗った周蔵さまとアレキサンドルがこちらへとやってくる。ハナさまはピーターを抱きあげ、二人にそっと頭を下げていた。 「ハナ……具合は大丈夫なのか?」 「はい、もう大丈夫です」  心配する周蔵さまにハナさまは微笑み、アレキサンドルに顔を向けた。 「遠いところお越しいただいたのに、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。伯爵」 「いや、私こそ急に押しかけてしまって……」 「馬に、乗せていただけませんか?」  ハナさまは不安げにアレキサンドルに話しかける。アレキサンドルは驚いた様子で眼を見開き、ハナさまに微笑んでみせた。 「ねこちゃん、しっかりと抱きしめていてくださいね」  そう言って彼は馬から降り、ハナさまに手を差し伸べる。ハナさまはその手を嬉しそうに握りしめていた。  その日の夜のことを、ピーターは生涯忘れないだろう。晩餐が終わった大食堂で、二人は楽しそうにダンスを踊っていたのだ。その様子を、ピーターは狛犬たちと一緒に見守っていた。 「なんで、なんでこうなるんだよっ!!」  米国に渡る船の上で、ピーターは叫ぶ。日本を離れ早数日。ピーターは周蔵さまに連れられ、米国へと渡ろうとしていた。何度も嫌だと周蔵さまに言ったのに、寂しいから一緒についてこいと無理やり船に乗せられたのだ。 「わーん、ハナさま!!」  にゃーんと船の甲板の上でピーターは鳴く。 「ピーター、私といるのがそんなに嬉しいか!!」  ピーターの首輪に繋がれているリードを持っていた周蔵さまは、そんなピーターをしっかりと抱きしめてきた。ふさふさの周蔵さまの髭が、ピーターの頬に容赦なく押しつけられる。 「や、やめてください。周蔵さま! 僕は、ハナさまとハナさまと一緒にいたいのに!!」 「ごめんな、エリザベートを連れてくるわけにはいかないし、かと言って一人は寂しいし、お前に来てもらうのが一番なんだ。これが、外交官としての私の最後の仕事になるかもしれないからな」  にこやかに微笑みながら、周蔵さまはピーターの顔を見つめてくる。 「ハナが結婚してから、もう二年か。今年には初孫が生まれるし、子が成長するのは早いな……」  ピーターの顔を見つめながら、周蔵さまはどこか寂しげな表情をつくってみせる。ハナさまがアレキサンドル伯爵と結婚してはや二年。ハナさまが寂しくないようにと、アレキサンドルは年に一度は日本に滞在し、ハナさまが那須野が原の別邸で過ごすことが出来るよう配慮してくれている。子が出来た二人の仲はピーターから見ても仲睦まじく、羨ましい限りだ。 「うう……ぼくのハナさま……」  あの日、アレキサンドルと踊ったハナさまは少しばかりの勇気をもって、彼のプロポーズを受けた。そのときのハナさまの嬉しそうな顔をピーターは忘れることはないだろう。  悲しみのあまり何度も鳴いて、狛犬たちに慰められたのがいい思い出だ。ピーターはそれでもいいと思っている。ハナさまが幸せなら、それはピーターの幸せでもあるから。 「お前にも、結婚相手を見つけないとな」  周蔵さまがそうおっしゃって、ピーターを甲板の上に降ろす。そのときだ。美しい白猫が尻尾をくゆらせながらピーターの横を過ぎ去ったのは。 「やあ、君もご主人様と旅の途中なの?」 「いえ、新大陸が見てみたくて一匹で乗り込んだの。主人なんていらないわ。猫は自由が一番だから」  小さな頭をピーターに向け、白猫は青い眼を得意げに細めてみせた。その美しい眼に、ピーターは釘付けになる。 「君の名前は?」 「ダイアナ。素敵でしょう? 自分でつけた名前よ」 「変わってるね」 「あなたこそ、お名前は?」 「ピーター、周蔵さまがつけてくれたんだ」 「へえ、なかなかいい名前じゃない」  彼女の眼が美しい光を帯びる。そんな彼女を見て、ピーターは何とも言えない胸騒ぎを覚えていた。彼女ともっと話がしたい。彼女に近づいて、ピーターは口を開く。 「僕も新大陸に行くんだ! ねえ、どうせ退屈だし色々と一緒に行動するのはどうかな?」 「あら、それって誘ってるの?」  恥ずかしそうにダイアナがピーターから顔を逸らす。そんな彼女にピーターは嬉しそうに頷いていた。  そうしてピーターは主人と共に米国に渡る。帰国した彼には新たな家族が出来たが、それはまた別のお話。  
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