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仕合わせ
恋人が死んでいた。家族旅行から帰ってきたらこれだ。僕は驚いてしまって、悲しいとか悔しいとか、そう言う気持ちにはまずなれなかった。
まず、僕と恋人はかくかくしかじかで関係を公にしていなかった。いわゆるクローゼットラブだ。理由はともかく。僕らの関係を知る人間は僕らを除き一人も(そう、本当に一人も)いなかったため、旅行中の僕に訃音が届かないのも、まあ無理はない。しかし、現在に至るまで関係に不便を感じることはあまりなかったので、今になってこんな目に合うとは思っても見なかった。
僕は空虚に泣いた。恋人の死に対する悲しみではなかった。恋人の、数時間後には目覚める前提で作られた、すこやかなあの寝顔を、もう見ることはできないのだと思った瞬間、すごく虚しくなったのだ。僕は生き死にそのものよりも、存在のわかりやすさに興味を持っている。今となってはもう、恋人の存在を証明することすらままならないのだ。僕は葬式に呼ばれるのだろうか。呼ばれたとしても、行けるわけではないのだが。僕は合鍵を使い、恋人の部屋に入った。真夜中だったが、気にしなかった。
恋人の部屋は死んでいた。明かりをつけた途端それがわかった。命の気配がまるでないのだ。家主が死んだら部屋も死ぬらしかった。部屋の照明は最小に絞られていて、薄暗い程度の明るさだった。したがって、明るくはなかった。
そのままにされた生活の入れ物を見て、僕は生きていた頃の恋人を思い出していた。
ポールハンガー。コートとマフラー。恋人は緑とグレーが好きだった。水切りにかけられた皿。裸。小さなテレビ。古い時計。恋人の静かな涙。美しかった。夜風で灰が舞う。優しくて怖くていい匂い。気道でくるっと回る熱い煙。僕たちは喫煙者だった。炭酸水のボトル。カトラリー。冷蔵庫と洗濯機の唸り。水色のタイル。滲んだ白線。シャワーヘッドを取り替えたのは去年の夏だ。背の高い椅子。花瓶。アネモネ。ミモザ。ペチュニア。キンモクセイ。クリスマス・ローズ。恋人は花屋だった。ゴールドの華奢なリングとピアス。小さな絵画。美術館で買ったマグカップ。知らない英米文学の原書。本棚はグレー。金属のしおり。読書家な人。小さな鍋。瓶に入ったシナモンスティック。コーヒー豆。手動のミル。ピンクの塩。イギリスのポテトチップ。カゴの中のタマネギがそのままだ。高価な果物ナイフ。真夜中に食べるリンゴ。僕が買ったハーシーズ。耳の裏の傷痕。アイボリーのシーツ。ベッドサイド。黒、オレンジ、光。感覚の鈍った指先。やわらかくて薄い皮膚。比較的大人しいコミュニケーションだったと思う。日が当たるのに寒いベランダ。カーテンをマントにして飛ぶ。白い息。水の溜まった紅茶の缶。異様に元気な観葉植物たち。ステンレスのじょうろ。少しこぼれた肥料の粒。室外機。恋人の浅い笑窪。愛してる。愛してるよ。
「だけど、死人に執着することはなかろう。」
気付けばベッドに座り、窓の外を眺めていた僕に、在りし日の恋人が言った。白いシャツを着ていた。
「執着じゃないよ。普通に、君が好きってだけだ。」
「ん? わかりにくいね。それを執着って言うんじゃないのかい。」
「僕はそう言う男だよ。」
見慣れたボトムスから、裸足が覗いている。血管すら見えそうな、薄い足の甲だ。夜風が吹き込む。真夜中のぬるいにおい。カーテンがわずかに揺れた。
「私たち、まだまだ若いじゃないか。」
「でも君は夭折した。」
「ほんとにね。不慮の事故って言うのは恐ろしいよ。君も気をつけてね。」
平然と言う恋人に、僕は下唇を出して不満を表した。
「不慮の事故で死んだ奴が言うなよ。」
「私のせいじゃなかろうに、責めないでくれ。あれは不可抗力です。」
ばつが悪そうではあったが、恋人の目はまっすぐだった。三日前に見た目とそう変わらない。恋人は色素が薄い人で、その黒目は薄茶がかっていたし、白い光は眩しいのだと言って聞かなかった。僕が与えた薄暗い緑のサングラスをたいそう気に入って、よくかけていたのが、なんだかもう懐かしい。しかし裸眼の恋人は、夜にだけ光る水色の縁を背負って、厳しい顔をしだした。
「私の部屋に居続けてどうするの。ちゃんと外に行って。せめて自分の部屋で、私を愛しんでくれ。そう、悲しむなら一人で。」
「酷なこと言うなよ。僕は君を忘れたくないんだ。」
「未練ったらしい男はもてないよ。」
「君にだけはもてたいよ。」
「私はそんな男嫌です。」
シャツのボタンが優しくきらめいた。急につっけんどんになった恋人に、僕は悲しくてキスをする。少しだけ立って、口を重ねて、すぐ座り直した。見上げた恋人はぶすくれている。
「キスごときで機嫌を取れると思うなよ。」
「本来なら抱いてるところだ。」
「抱けば解決だと思ってないかい? 私はセックスレスでも構わないよ。」
「僕が耐えられないね。」
「君の話はしてない。」
眉間にしわを寄せた恋人は、表情を変えずに宙で一回転半すると、さかさまのまま言った。人差し指を立て、くっくっと左右に振っている。ゴールドの輪郭がぶれる。寝室にはほとんど照明がなく、唐変木な恋人は暗くなったら暗いまま生活していた。僕が置いたベッドサイドランプだって、ほとんど機能しなかったくらいだ。だから、今も暗いこの部屋で、恋人の指輪は鈍い存在感を放っていた。
「どうやら、成仏は任意らしいんだ。」
「マジでか。」
「うん。まあ、成仏って言う概念でもないけど……私たち死人はもう、魂とは隔離された「概念」なんだ。わかるかな。」
こいつはなにを言っている? 僕は首を傾げた。説明している恋人自身も少し不思議そうな顔をしているので、たぶん理解しているわけではないのだろう。突きつけられた事実を、突きつけられたままに語っていると言った風に見えた。
「さっぱり。」
「だよね。かく言う私もよくわかってません。」
ほらみろ。どう言うことなんだろうか、と言いつつも、くるんくるんと一回転半と半回転を繰り返す恋人を、ちょっと鯉のようだと思った。小さな池で泳ぐ、白と金の錦鯉。はすの花がよく似合う。もちろん、僕は恋人にぞっこんだ。当然だろう。出会った時からずっとそうだったのだから、今とて変わるわけじゃない。締め切られた空気の中に、細かい埃が輝いている。月光に照らされて、四肢の隅っこまでがあけすけだ。恋人は片目を瞑って、言い聞かせるように言った。
「とにかく、私は死人だけど、居なくなったわけではないよ。」
僕は聞き返す。
「けど、人ではない?」
「どうだろう。人間の本質みたいなものかもしれないね。私は身体を捨てたに過ぎない。……おそらく。おそらくだよ。」
「それは幸せな仮説だ。そうであってほしい。違ったらいっそ後を追うよ。」
「だったら逆立ちで歩いてくれた方がいいな。君の逆立ち、見たことないし、ちょっと面白そう。」
恋人の動きが止まった。そして一瞬、もう一度回ろうとして、やめていた。恋人はお節介で心配しいだ。今だって、気持ち程度の冗談で死を匂わせてみたら、こうだ。生きている頃からそうなのだから、生まれ持った性質と言わざるを得ない。いかんせん僕より四つ年上なので、それもあってか生前もよく僕を心配していた。僕よりも僕のことを憂うのが、恋人の趣味だったのだ。僕はそんな、賢くてちょっと馬鹿なこいつに惚れ込んでいたと言うわけなのだが。馬鹿は可愛いものだ。人間は馬鹿であればあるほど幸せなのだから。
「食欲は?」
恋人が目を伏せた。
「あるわけなかろう。身体はもう脱いんだんだ。古いよ、実態と欲って言うコンテンツは。」
「性欲。」
「ないったら。私は時代の最先端にいるんです。」
「じゃあ、さっきのキスは?」
僕が聞くと、恋人はうっと押し黙った。何か言いかけて飲み込んだのが見て取れる。しめたと思い、僕は追撃を始めた。
「手応えはあったけどな。」
「そりゃ君の話だよ。私は「された」ってことしかわからなかった。感触は……どうだろうね。」
くるん、と恋人が回った。右に回った。僕が調子に乗り出したことに気付いたようだった。
「ねえ、抱いていいかな。」
「今? 今なのかい?」
「だめかな。」
「死人を抱こうとはヤな趣味してるね。いいわけなかろう。そもそもできるかもわからない。」
「キスができてセックスはできないのか? そんな残酷なこと許せないよ、僕は。」
恋人がまた眉間にしわを寄せた。さっきから不機嫌な顔ばかりしている。だが僕は存外本気で言っているし、相手もそれをわかっての表情なのだと思う。恋人はずんと低い声で、
「中学生と恋人になった覚えはないよ。」
と、つっぱねた。半回転しながら。なので僕も、
「男は死ぬまで少年だよ。」
と、つきかえした。
「私は歳相応です。」
「じゃあ、大人の余裕で相手してくれよ。」
「ああ言えばこう言う……。」
恋人は宙ぶらりんの毛先をぱさぱさ揺らしている。重力があるのかないのか、曖昧な揺れ方だ。全部が全部、下を向いているわけではない。前髪の先っちょが、少し振れている程度だ。なぜかはよくわからなかった。死んでいるからなのだろうか。僕がその毛先を見つめていると、恋人はまた鯉のようにくるくると遊泳して、ため息をついた。
「じゃあ、まあ、いいよ。できるものならしてご覧。馬鹿らしくなってきた。」
「言ったね。」
「言ったとも。けど、できなくても泣かないでくれよ。」
「僕は男だぞ。泣かないよ。」
「さっき泣いてたのは誰なの。」
僕たちは微笑みあって、一度手を取って離すと、お互いの存在に身を投じた。恋人の身体は以前と変わらないようで、もっと脆い、花の入ったゼリーのような不思議な感触だった。そして僕は、死人でもほんのり温かいと言うことを知った。
反芻する。アネモネ。ミモザ。ペチュニア。キンモクセイ。クリスマス・ローズ。
隣の恋人は、遠い光を見るような目で、「しあわせ。」と言った。紙の上をなぞるみたいな言い方だった。
「しあわせだった?」
「うん。今もしあわせだ。私、愛されるの、好きだった。愛するのも好きだったよ。君が好きだった。今も好きだよ。」
僕の小さな問いかけに、恋人は愛の応酬をくれた。僕が頷くと、恋人は消えた。
今、恋人の部屋には僕が住んでいる。時間はかかったが、そんなに難しいことではなかった。
恋人はもういない。成仏したのかはわからない。心残りがあったとか、それがどうにかなったとか、そう言うのは一切合切、不明なままだ。なにも教えてくれないまま話を終わらせるなんて、らしくもなくて、当然はじめてだった。ここまでくればちょっとした笑いの種だ。だから、反芻するのはやめた。ついでにたばこも。
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