白き花と夏の庭 10

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白き花と夏の庭 10

「夕凪、ほら土産だ。とてもいい生地が手に入ったよ」  東京から戻って来た湖翠さんから渡されたのは、滑らかな絹生地だった。こんな上等な生地を何処で……これは普通、格の高い着物(礼装および盛装)に用いられる高級品だ。 「どう? 気に入ったかな」 「はい。すごく良い生地です。おそらく礼装用かと思います」 「そうなのか? ふうん……絵付けできそうか」 「そうですね。この生地ならば※絵羽模様なんかも良いかと」 「そうか、では夕凪自身が着られるものを作って欲しい」 「……俺自身が? 」 「そうだよ、師匠が仰っていたよ。もう夕凪の腕なら一着の着物を一人で絵付けから仕立てまで仕上げられると」 「……俺の着物」  初めて一から考える着物の図案。今までは師匠に教えていただいた絵柄を模倣したり、以前律矢さんに手ほどきを受けたあの鷺草を描いたりしてきた。小さなハンカチから始めた俺だけの作品。  今、俺が描きたいものは何だろう。  それは白き花だ。  穢れなき白い花……  だが……俺はまだその花にまだ出逢っていない。 **** 「夕凪、あまり山奥へ行くなよ」 「はい、大丈夫です。いつもの道しか行きませんよ」 「そうか、ほら水筒だ」 「いつもありがとうございます」 「んっ、少し日焼けしていい顔色になったな」  相変わらず過保護に俺を甘やかしてくれる流水さんに渡された水筒から、水を一口飲んで、額に浮かぶ汗を拭った。  見上げた空には雲一つない。今日は良く晴れている。  まだ出逢わない……でも描きたい。  そんな想いが駆け上がってくる。  逸る気持ちのせいか……遠くから微かに聴こえる水音に誘わた。あそこへは行ってはいけないと言われているが少し見るくらいなら、そんな軽い気持ちでいつもは踏み入れない竹林の向こうへ足を延ばしてしまった。  足元に生い茂る野草を掻き分け、鬱陶しい程の笹を払ったその先の世界。そこにはなんと小さな滝があった。 「そうか……水音はこれだったのか」  その時視界に入ったのは滝の上の岩場を駆け上がるように咲く白き花。 「あっ……あれは」  夜空に輝く星のように凛とした六枚の乳白色の花弁。淡い黄色の花粉も芳しく、茎葉の緑も思慮深い。 「この花は……まるで純潔の象徴そのものだ」  手に取りたい。描きたい。  もう何も考えられなかった。  俺は岩場へ向かって、道なき道を歩み出した。  あと少し……あと少しだ。  届きそうで届かない花に手を伸ばしている最中に、背後から突然声がした。 「夕凪!」  雷に打たれたように、はっとした。  この声は……まさか……まさか信二郎なのか。  そんな……ありえない。何故ここに?何故ここが分かったのだ。何故今になって……  躰が固まって動かない。 「夕凪、夕凪会いたかった! お願いだ、こっちを向いてくれ」  この声……忘れるはずがないよ。  信二郎の静かな思慮深い低い声。  俺はかつて、この声に抱かれ、この声を愛したのだから。 「本当に……信二郎……なのか」 ※絵羽模様 絵羽模様とは、格の高い、着物の模様つけのひとつです。着物の模様が、縫い目を境に途切れたりせずに、縫い目を越えて連続していることを「絵羽模様」といいます。
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