白き花と夏の庭 11

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白き花と夏の庭 11

「夕凪……」  目の前に立っているのが本当に夕凪のなのか、それとも幻なのか……夢現な気持ちだった。  海風に教えてもらった寺には早い時間に辿り着いた。そこは北鎌倉の山奥に広大な敷地を誇る古寺だった。  そのまま正門を潜る勇気が持てずに裏門から入った。  少しだけ息を整え、心を整えたかったから。  裏門は山の上に位置していたようで、坂道を下るような感じで私は歩いていた。  生い茂った草花、そびえたつ竹林。そんな緑で覆いつくされたような世界の中に、突然飛び込んで来たのは白きもの。  それは目を凝らすと白き花だった。夜空に輝く星のように凛とした六枚の乳白色の花弁。淡い黄色の花粉も芳しく、茎葉の緑も思慮深いものだ。眼下の岩場には滝があり、滝に沿ってその花は咲いていた。 「この花は……まるで夕凪のように気高く美しいな」  視線をずらすと、その岩場にちらっと人影が遠目に見えた。花を取ろうとしているのか、岩場から身を乗り出し手を伸ばしているようだった。不審に思い、崖を降りてよく確かめようと思った。背格好がよく似ている。まさか…… 「一体誰だ? もしや……」  次の瞬間信じられない横顔を見た。  楚々とした着物姿の青年は、この一年もの間ずっとずっと探し求め、逢いたくてたまらなかったかの人。  夕凪……君だった。 「夕凪! 夕凪会いたかった! お願いだ、こっちを向いてくれ」  大声で呼びかけると、彼もこちらを見た。目を大きく見開いて驚愕しているようだ。  なんてことだ! やはり本人だ! 間違いない!  海風の言った通り、やはりこの寺に夕凪はいたのだ。  懐かしそうに、それでいてもどかしそうな表情のまま動かない夕凪。  どうした? 一体何があった?  聞きたいことは山ほどある。だが今はそんなことどうでもよかった。生身の夕凪をこの腕に抱きしめたかった。 「夕凪、こっちへ来い!」  彼の眼は戸惑いで揺れていた。 「本当に信二郎なのか……そんな」 「あぁ俺だ! 君を迎えに来た」 「俺を……?」 「当たり前だ、一年前からずっと探し求めていた。ずっと逢いたかった、さぁ」  大きく手を伸ばした。こちらに来て欲しい。だが彼は寂しげに首を振った。そんな態度を取る理由が分からぬ。 「駄目だ……駄目だよ……信二郎、俺はもう昔の俺じゃない」  寂し気に揺れる白い顎、首……儚げさが増したその姿。一体この一年の間に、君に何があったのだ。 「夕凪、何を言っている? 君は君じゃないか。今そこにいるのは夕凪だろう」 「俺はもう……以前とは……」  もどかしい。  やはり何かあったのだ。  じゃなければ、一年もの間、こんなところにいるはずがない。  一体何が……列車の中でか、それとも途中下車した大船でか。嫌な光景が過る。いやそんなことはどうでもいい。 「夕凪は夕凪だ。さぁ来い! 何があっても私は君が好きなんだ」 「……何があっても? 」  寂し気な笑みだ。  何故そんな諦めたような表情を。 「さぁ来い! 私のもとへ帰ってこい、迎えに来た」 ****  この手を取っても良いのか。  俺の身はもう穢され汚れているのに……  この手を取るのは許されるのだろうか。  もうこのまま寺で一生を過ごすのかもしれない。  それも良いのかもしれない。  そんな風に思っていた矢先の出来事。  まさか信二郎、君が俺を探し求め、迎えに来てくれるなんてな。 「さぁ来い! 」  力強い一言だった。  一歩の勇気、あと少しの……勇気を俺にくれ。まだ足が動かないよ。  そんな時あの母の墓で邂逅した、彼の顔を思い出した。隣に立つ男性としっかり手を繋ぎ、幸せそうな笑みを浮かべた彼の顔は、俺とそっくりだった。  彼のようになりたい。  彼のように生きたい。  この手を取れば、そうなれるのか。 (そうだよ。夕凪……さぁ進んで、真っすぐに)  そんな優しい声が聴こえた。  トンっと見えない手で背中を押されたような気がした。  その反動で一歩足が前に出た。 「信二郎……」 「夕凪、さぁ手を寄こせ。そこは足場が悪い」 「あぁ」  もう一歩。  手を俺の方からも伸ばした。  あと少し……  あと少しで一年ぶりに信二郎に触れられる。  ところが差し出した手が、信二郎に触れるか否かの瞬間だった。  突然視界が左右にぶれた。 「あっ!」  足元の岩場が突然崩れたのだ。ぐらりと揺れる躰を支えきれない。 「信二郎っ!」  短く悲鳴のような声!! 「夕凪っ」  信二郎の手を掴もうと伸ばしたのに、どんどん離れていく。  真っ逆さまに、躰が落ちていく!  必死に何かを掴もうと手を振り回し、俺の手にやっと触れたのは白き花だった  白き花がぱっと散らばる中、俺は落ちていく。  真っ逆さまに! **** 本日は別途連載中の『重なる月』といずれリンクしていきます。
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