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羽織る 1
「ちょっと若旦那はん、どうなすったの?」
「えっ申し訳ありません。こちらのお着物ですか」
しっかりしなくては……今は接客中だぞ。
先日絵師の信二郎が俺にしたことを思い出して一人赤面してしまった。あの日、風呂で躰に描かれた墨絵を落とすのに一苦労した。躰は重たく腰は痛いし興奮した熱がまだ内部に残っているようだ。
何よりも男性同士で、あのようなことをしてしまった自分に恥ずかしくもなり、かといって嫌でなかった自分に赤面もしてしまうよ。
絵師は俺のこと、ああいう目で見ていたのか。一体いつから……いやそれより俺の方が絵師をああいう目で見ていたのか。自分のしたことがまだ信じられない。大きなため息をついていると、背後から声がかかった。
「夕凪さんってば、何を落ちこんでいらっしゃるの?」
「……桜香さん」
彼女は俺の許婚の女性だ。呉服屋の一人息子として当然跡目を継がないといけないし、そのために教育も親には十分受けさせてもらった。あとは一宮屋の女主人として、知識も教養もある女性を娶って、この店を二人でやっていって欲しいというのが年老いた両親の希望で、俺もそれに納得して先日先方からの結納の話も受けたばかりだ。
桜香さんは濃い紫色の袴姿に合わせた桜色の着物が可憐で色白の美しい女学生で、非の打ちどころのない女性だった。
「夕凪さん、そろそろ日取りを決めるそうよ。だから両親からお結納の準備をしなさいって言われたわ。だから今日はお着物を見立てていただこうと思って参りましたのよ」
「そうなんだね」
「夕凪さんあのね、私が春に女学校を卒業したら、すぐにお結納をという話になっていることをご存じ?」
「えっ……いや知らなかった」
「もうっ夕凪さんってば本当に疎い方! 今度の春に結納をしたらここで若女将の修行をさせていただいて秋には結婚式をという約束よ。まぁいいわ、とりあえず今日は新作のお着物を見せていただける?」
「あっうん、そうだったね。どうぞこちらに」
桜香さんは、キラキラと踊る様に可愛い黒目がちな眼を輝かせて着物を物色している。そんな彼女の姿を可愛いと心の底から思うのに、どこか気乗りしない自分がいることに惑いを覚える。
信二郎の奴が俺にあんなことをしたせいだ。俺、少しおかしくなってしまったじゃないか。
彼女の細いうなじを見つめながら、女装した時に信二郎にうなじに口づけされた時のことを思い出しまた赤面してしまう。
「夕凪さん? 今日は少し変ね。さっきから赤くなったり青くなったり」
桜香さんが不思議そうに俺の顔を覗き込んで額に手を伸ばしてきた。途端に躰を大きく一歩後退させてしまった。今桜香さんに肌に触れられるのは嫌だった。何故だろう。
「夕凪さん?」
桜香さんも、俺の反応に戸惑って怪訝な表情を浮かべている。
「いや……大丈夫。で……でも少し具合が悪いのかも」
「まぁそれは大変! お母様っ夕凪さんがお熱かもしれません」
「あっ待って! 違うからっ」
バタバタと母の方へ駆け出す彼女を見送りほっと一息つく。
はぁ女っていうのは目ざといな。何だか少し面倒くさい。その点絵師の信二郎とは気兼ねなくなんでも喋れるし、俺の好みも分かってくれる。それから まずいことに、信二郎に抱かれたのが気持ち良かった。一人赤面していると背後から声を掛けられる。
「夕凪いるか」
「えっ!」
この声は信二郎だ!信二郎には許婚の話を、まだしてなかった。
しまった! このタイミングはなんとも気まずいな。再び冷汗がたらりと流れ落ちてしまった。
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