道 3

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道 3

 信二郎の口づけは、ひたすらに甘く優しく心地良かった。頭の中にモヤモヤと凝り固まっていたものが、熱を帯びて蕩けていくように夢見心地になっていた。 「夕凪……会いたかった。ずっと探していた……私の夕凪」  もう一度耳元で熱く囁かれ、そのまま一気に唇を貪られる。 「あっ……」  いけない。  律矢さんは俺のために、あんな深手を負ったのに。  いけない。  いつこの部屋に湖翠さんや流水さんが入って来るか分からないのに。  だが信二郎の胸を押しのけようと伸ばした手は掴まれて、さらに信二郎の懐深くに抱き寄せられていく。  深く……きつく。 「夕凪が生きていてくれた。温かいな、君の躰」  次第に信二郎の指先が、着物の裾に伸びてきてしまう。太腿を撫でるように侵入してくる手のひらの動きに、心臓が止まるかと思った。  怖いっ──  だがこの手は信二郎のものだ。俺を愛し求めてくれる人のものだ。  忘れていた。  強引なまでに俺を必要としてくれる人がいたことを。必要とされることの歓びは、生きている喜びにもつながることを。    そう思うと、俺は信二郎の手の侵入を止めることは出来なかった。  信二郎は唇も離してくれない。  息苦しい程の激しい接吻を受け止めながら、手の侵入を許していた。  灯ってしまう!  もう……このまま身を任せてしまおうか。  ところが手のひらが内股に滑り込み、その奥へと進もうとした矢先に、襖の向こうから咳払いが聴こえた。 「夕凪、入ってもいいか」 「あっ……はい」  湖翠さんの声だった。  慌てて俺はぱっと信二郎から離れ、濡れた唇を着物の袂で拭い、乱れた着物を整えた。  信二郎も場を察したようで、すぐに俺から離れてくれた。 ****  客間で、湖翠さん、流水さん、俺、信二郎の四人で向かい合っている。 「あの……」 「……」  湖翠さんはじっと押し黙ったままなので、代わりに流水さんが話し始めた。 「じゃあ君が……夕凪が待っていた人なのか」 「はい、坂田信二郎と申します。そして正確にはそのうちの一人だと思います」  信二郎は少しも迷うことなく、そう答えた。 「ふっ案外正直だな」 「それは……律矢も私も同じ位必死に夕凪の行方を探し求めていましたから。あいつは今、夕凪を助けるために怪我をして苦しんでいるのに……抜け駆けは出来ません」 「……だが……さっき君は先に夕凪を食べたんじゃないのか」  流水さんが意地悪そうに尋ねた。 「それは……夕凪のことを見たら止まらなくなって、つい……すみません」  信二郎は、少し恥じ入るような顔をした。  絵師と若旦那として出逢った頃は強引なだけかと思うこともあったが、何度も躰を重ねるうちに、その真の心に触れることが出来た。本当の君は、少しぶっきらぼうだが情に熱い優しさを持っている。 「ふぅん……で。夕凪は大丈夫だったのか。怖くなかった?」 「……りゅっ流水さん……それは…はい…」  なんだかこの一年、兄のように慕ってきた人に対して、面と向かってこのような話をするのは恥ずかしい。  男同士というだけでもおかしな話なのに、襖一枚隔てた場所で先ほど接吻をしていたことを想像されただけでも消え入りたくなってしまう。まともに顔を上げられずに正座したまま、手をぎゅっと膝の上で握った。 「本物なんだな」 「えっ」 「夕凪はずっと待っていたよ。口に出したりすることはなかったが、迎えが来るのを毎日待っていた。いつもこの寺の庭のもっと先を見つめていたよ。しかし、それがまさか今日になって二人揃って現れるなんて運命の悪戯なのか。夕凪……君はどうするんだい? すべては君次第だよ」 「流水さん……俺に選ぶ資格なんてない。俺は……だって、あの日」  ここにいるのは、もう信二郎の知っている俺ではない。  穢れた身の上だということを、話さないと、信二郎に伝えなければ……そう思うが、苦しかった。あの日のことを自らの口で告げることは。  口は乾き、心臓がバクバクと音をたて、鼓動も早くなっていく。 「夕凪……どうした?」 「あっあの」  言葉が出てこないし続けられない。冷たい汗が背中を流れ落ちたことだけが、妙にはっきりと分かった。 「……言わなくてよい」  湖翠さんが、その時になってようやく静かに口を開いた。 「君は……信二郎さんと言ったね。もしよかったら暫くこの寺に泊って行かないか。夕凪の方もこのように興奮していれ考えがまとまらないだろうし、律矢さんの容態もまだ落ち着かない。客間を用意するので、そうしてくれないか」 「勿体ない話です。でも……私の方も、律矢の様子が気になりますし、焦るつもりはありませんので、お言葉に甘えても良いでしょうか」 「もちろんだ」  この時の俺にはまだ進むべき道が、少しも見えていなかった。  だから湖翠さんの提案に、心底安堵していた。  だがいつまでもこのままではいられない。  それも、よく理解していたのだ。
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