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道 4
少し奇妙な同居生活が月影寺で始まってから、一週間が過ぎようとしていた。
「律矢さん、入ってもいいですか」
「夕凪か。もちろんだ」
律矢さんの怪我も日に日に良くなって、顔色もすっかり良くなってきていた。
「あぁ……今日は顔色が良いですね」
「そうか。もう起きても大丈夫と医者に言われたよ。なぁこの寺の庭は興味深いな。あとで少し散歩してみたいのだが」
律矢さんは手鏡を覗き込んで、無精髭を手で撫でた。
「良かった。庭なら俺も付き合います」
「そうしてくれるか」
あ……まただ。
最近律矢さんは、俺のことをこんな風に目を細めて眩しそうに見つめる。ただそれだけを繰り返す。再会してから律矢さんは俺の躰には一切触れてこない。もしかして一度だけ触れようとした瞬間、俺が気を失ってしまったことを気にしているのだろうか。
「信二郎は今、何をしている?」
「信二郎もこの寺の庭が気に入ってしまったらしく、今日も庭に出てスケッチをすると」
「そうか」
何もかも月影寺に甘えてばかりの生活だ。それでも今はこの束の間の平和な時を噛みしめたい気持ちで一杯だった。
****
「いいか。この寺の庭は広い。夕凪はもう滝のある岩場へは絶対に行くなよ」
「はい、分かりました」
「律矢さんも無理しないように。あなたは酷い貧血だったのだから、まだふらつくこともあるだろう」
「ええ、分かっています」
流水さんはいつもの儀式のように、俺に麦わら帽子を被せ水筒を持たせた。それを横で見ていた律矢さんは愉快そうに肩を揺らした。
「ははっ、お子様扱いか」
「あぁ、まだお子様だからな」
同時に流水さんも豪快に笑った。明るい雰囲気で見送られたせいもあり、ゆったりとした気持ちで律矢さんと会話を続けた。
「くくくっ本当に夕凪は小さな子供に戻ったみたいだ」
「律矢さんまで! 」
「あっ悪い。でも俺は小さい頃の夕凪に会いたかったから、なんだか嬉しいよ。夕凪……君はこの寺で大事されていたんだな」
「それは……俺は助けてもらったんです。この寺に……湖翠さんと流水さんに」
駄目だ。この先のことを正直に話そうと思うと、いつも口が貝のように閉じてしまう。律矢さんにも信二郎にも本当のことを言えない卑怯な俺がいる。
「いいんだよ。夕凪が一年前何故この寺に辿り着いたのかは、もう聞かないことにした。君がこの寺で健康的に笑っている姿を見たら、もうどうでもよくなったよ。それに俺はもう……夕凪には触れないから安心しろ」
「え……律矢さん? 何故急に……」
「……夕凪に俺が何も聞かないように、俺にもその理由を聞かないでもらえるか」
あんなに俺を求め続けた律矢さんの変わりよう。不思議でたまらなかったが、そのように希望されてしまえば何も聞くことはできない。
律矢さんは、怪我した手を木漏れ日に向かってぐんっと伸ばした。
「この手の傷が完全に治ったら、俺は京都に帰るよ。夕凪はこの先は信二郎と生きていけ」
「律矢さん……どうして」
「夕凪が決められないのなら、俺が決めてやる」
「律矢さん」
「そもそも奪ったのは俺だ。夕凪は当時もう信二郎のものだったのに、横入りしたんだ。元はと言えば、俺の親父が圧力をかけて夕凪の家を傾けさせたんだし、そのことを俺は息子として恥じている。そして人間としても恥じている。すまなかった」
「一体なんのことですか……何故謝るのですか」
分からなくなってきていた。
当時の記憶が混沌としてきて、何が正しくて何がいけなかったのか。若旦那として過ごした頃には経験しなかったことばかり、次々と起きたせいなのか。
「夕凪、逃げるな。信二郎と進んでいい。いや違う。俺がそうしてくれと頼んでいる。信二郎、今の話をしかと聞いたな。俺の決心を」
「あぁ」
「えっ信二郎」
気が付くと、俺のすぐ後ろに信二郎が立っていた。
「夕凪……無駄にするな。律矢の決心を」
「だがそれで律矢さんは……その、幸せになれるのですか」
「ふっ馬鹿だな。夕凪。俺の幸せなんてどうでもいい。だが夕凪が幸せになってくれるのなら、俺も幸せを感じられるだろう」
「指を……俺のために指を怪我したのに」
「本当に馬鹿だな。こんな指ごときでお前のこと引き留めたりしない」
「でも」
「信二郎とはもう相談済みだ。俺達の間では、もう納得している」
「そんな……いつの間に。俺の知らない間に……」
「さぁ夕凪、もう行け!」
信二郎も律矢さんも選べない心が弱い俺のために、二人はいつの間に話し合ったのか。俺はこんなにしてもらってもまだ、二人の手を離せないでいるというのに。
恥ずかしい。
俺はこんな優柔不断な人間なのに、こんなにも素晴らしい男性二人に真剣に考えてもらっているのだ。
一気に目が覚めた。
もういつまでも頼って、恥ずかしがってばかりでは駄目だ。
もういい加減に、俺も男として前に進まないといけない。
だが、信二郎と行くにしても……彼にただ甘えて頼って過ごすのは嫌だった。
ずっと秘めていた願いがある。ありったけの勇気をもって、律矢さんに願い出た。
俺はこの寺で、一年間着物の絵付けを学んできた。でもずっと忘れられなかった。あの山荘で、俺に絵の手ほどきをしてくれた律矢さんの幽玄な美の世界のことを。
あの世界にもっと触れたい。
あの世界こそが、俺が憧れ求めてやまないものだったのだ。
「律矢さん、俺を弟子にして下さい。真剣にあなたの絵を学ばせて下さい」
気が付くと……俺は草むらに膝をつき、頭を下げ懇願していた。
初めてだ!こんなに自分のために何かをしたいと思ったのも、何かを必死に手に入れたいと思ったのも!
「どうか……お願いします」
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