道 5

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道 5

 目の前で、地べたに膝をついて弟子入りしたいと願う、夕凪のその健気な姿。  男にしては細い首。風が吹くたびに見え隠れする震える細いうなじに、込み上げてくる熱いものをねじ伏せるより仕方がなかった。  本当は夕凪が欲しい。  欲望の赴くまま、あの山荘で抱きあったあの細い躰を抱きしめ、あの吐息を直に感じ……再びこの胸に抱き、狂おしいまで抱き潰してしまいたい。  浅ましいが……これが俺の本性であり、本音だ。  だが夕凪……君が半分血を分けた弟だということは、どうあがいても消せない事実なんだ。知らなかったら、良かった。そうしたら俺は信二郎にお前を託すようなことをしなかったろう。  同じ父を持っている。  そのことは俺をずっと苦しめていた。もう抱いてしまった。だからもう関係ないのか……いやそうではない。過ちを過ちで隠すようなことをしたくない。  それにあの滝つぼに落ちていく夕凪を助けるために、俺は誓ってしまった。  俺はどうなってもいい。夕凪が助かるのならばと……その結果、俺は指先に深い傷を負っていた。これはもしや天罰なのか。  そして今一瞬、夕凪からの弟子という申し出に、心が大きく揺らぎそうになった。夕凪を弟子にか……確かにそんなことを考えた時期もあった。  俺も同じだよ。夕凪と恋人として傍にいられないのなら、せめて弟子として近くに置いておきたい。それに薫としての絵師技術を、夕凪に直伝することには意味があるのだ。薫の作品は……もともとは夕凪の母の夕顔の系譜で……俺はその中継ぎしているようなものだ。  だが……駄目なんだ。  夕凪にはまだ話せていない。  誰にもまだ話せていないことがある。  恐らく大鷹屋の主人として生きていくには、支障はないこと。  だが絵師としての致命的な痛手を受けてしまった。  昨夜……手の包帯が取れて、気が付いたのだ。  ふと文机の細筆を手に取った時に、それは手を滑り落ちてしまった。不思議に思い何度も掴もうとするが、掴めなかった。  そうなのだ……俺の指は細い筆を持てなくなっていた。何度掴もうとしても指先が痺れて、落としてしまう。  もしかしたらリハビリすれば掴めるようになるかもしれないが、着物の絵付けのような繊細な線を引くことは、もう叶わないだろう。  このことを知ったら夕凪は己を責めるだろう。  彼にそんな荷を負わせたくない。  弟子にするということは、だから無理なんだ。師匠として見本を見せなくてはならぬだろう。隠し通せるものではない。  許せよ。 「弟子には出来ない。俺と夕凪はこの北鎌倉での縁をもって終わりにする。分かってくれ。どんな覚悟で俺が信二郎にお前を託すのか…」 「律矢さん……何故そんなにも……弟子すらも拒むのは何故ですか」  夕凪の眼は、もう涙で潤んでいた。  何もかも約束を反故にしてしまいたい。  この腕で抱き寄せて、果実のようなその可憐な唇に口づけしたい。  そんな溢れる気持ちはどこへ捨てたらいいのか分からない。墓場まで持っていくのだろうか。 「すまないな、夕凪……どちらかを選ぶというのはそういうことなのだ、乗り越えてくれ」 「律矢さんっ」  今にも駆け寄ってきそうな、夕凪のことを信二郎が抱き留めた。 「夕凪行くな。もう決めたことだ。私だって辛い。君を律矢と二人で分けてしまいたい位だ。だがそんなことをしたら夕凪の躰が持たない。夕凪の魂が壊れてしまうだろう。だからしょうがないのだ」 「俺は俺はっそれでもいい。弟子も駄目なんて!そんなじゃあ、半分ずつ俺の躰を持って行ってくれてもいいっ!だから俺を置いて行かないで!律矢さんっ」 「夕凪っいい加減にしろっ」  パシッ  気が付くと愛しい人の頬をおもいっきり叩いていた。痛いのは夕凪のはずなのに、叩いた俺の手は腫れあがるようにキリキリと痛んだ。 「夕凪のことが大切だ。愛している。だから選んだ道だ。もう二度と逢わない覚悟だ」 「え……二度と?」  叩かれたショックで夕凪は、目を見開いたまま固まっていた。やがて静かにその目を閉じると、一筋の涙が流れ、赤くなってしまった頬を濡らした。  俺の覚悟を受け入れてくれたのか、夕凪は観念したように苦し気に申し出た。 「うっ律矢さんの覚悟……そこまで……では……でもせめてこの寺で療養する間だけは、俺にお世話させて下さい」 「……」 「お願いです……せめて」  震えながら、頭を下げて来る。  これ以上無下に出来なかった。  こんなに可愛い人が震え、嘆き、悲しむ姿をもうこれ以上見ていられない。 「夕凪、頭をあげろ。数日だ。三日後に俺は京都へ戻ることにする」  そうだ。  俺に残されたのは三日のみ。 「信二郎……それでいいか。悪いな」 「お前大丈夫なのか。もちろんだ。それで双方の気が済むというのなら、私は見守ろう」
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