776人が本棚に入れています
本棚に追加
三人の世界 2
筆を掴もうとした途端、まずいことに右手が震え出してしまった。
しまった!
だが、そう思った時はもう遅かった。無理矢理震える手で掴んだ筆は、ポロっと不自然に足元へ転がって行ってしまった。
「え……」
夕凪が不思議そうに足元の筆を見て、それからゆっくりと不安に揺れる瞳で、俺のことを見つめた。
「律矢さん……? まさか……手が……指先が」
「なんでもない。ちょっと指が痺れただけさ。さてと少し疲れたかな。先に戻っているよ」
「あっ、そんなっ待ってください」
夕凪に負担をかけたくない。その一心で知られないように注意していたのに、俺としたことが油断した。慌てて俺は夕凪に背を向けて、その場を立ち去った。
夕凪は呆然と立ち尽くしているようで、俺の後を追いかけては来なかった。
少し寂しくも思ったが、これでいいのだ。そう自分の心を戒めた。
****
夜になって先に風呂に入ったらしく浴衣姿の夕凪が、夕食を載せたお盆を運んで来た。俺の横に盆を置くと無言でその隣に座った。
思いつめた表情をしているな。
いつもならお盆を置いて、台所へと戻っていくのに……どうやら今日は食べるところまで確認しないとすまないといった固い決意が、夕凪の顔に表れていた。
あぁこんな時すらも、君は綺麗だ。研ぎ澄まされたような美しさを、この会えなかった一年で更に身に付けたようだ。
それから夕凪は重い口を開いた。
「律矢さん……さっきのことですが」
「ん? なんだっけ」
「とぼけないでください!」
「おいおい怖いな、ははっ」
深刻になるのが嫌で、ついふざけてしまう。これは俺の悪い癖だ。
「茶化さないで真面目に答えて欲しい。指先に痺れがあるのですね」
「そんなことない。あったとしても一次的なものだ」
「いや、俺はさっきお医者様の所まで行って……真実を聞いてきました」
「ちっ! あの医者め。口止めしていたのに」
「いやお医者様は悪くない。俺が真実を知りたいと頼み込んだのです。どうしても教えて欲しいと、律矢さんの恋人だから知る権利があると」
「なにを……恋人って」
夕凪の目は、赤く潤んでいた。それから俺の右手を掴んで、そこに頬を寄せて来た。
夕凪の薄い肩が小刻みに震えているが、顔を伏せるようにしているので表情が見えない。だが、包帯が徐々にしっとりと濡れていくのを感じた。
泣いているのか。
俺のために……
泣いてくれるのか。
「これからは俺が律矢さんの右手になりたい。だから俺を傍にいさせて欲しい。お願いだから……」
「夕凪?」
そのまま夕凪は、迷うことなく俺の唇を奪った。
最初のコメントを投稿しよう!