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羽織る 2
「信二郎っ」
「どうした? 青い顔をして?」
暖簾の先から何事もなかったように、いつもの如く颯爽と現れた信二郎に、俺はあの日以来初めて顔を合わせるせいか、気まずさと後ろめたさで苛まれた。
あの日、雄の顔をした信二郎に俺の躰の全てを見られ、俺の躰の奥深い所に信二郎の熱い塊を挿しこまれ……俺……この躰に女みたいに受け入れ、快楽の波に揉まれ、気が付いたときはベッドで放心状態だった。
信二郎の顔を見るなりあの日のあの二人の情事が脳裏にぶわっと蘇り、身体が熱くなり顔は真っ赤に染まり出す。
「どうした?」
余裕の笑みを浮かべる信二郎だ。
「お前なっ! なっ何をしたのか覚えているはずなのに……よくもそんな抜け抜けと」
こちらははしどろもどろになっているのに、何もなかったようにしれっとしている信二郎が憎たらしくなり、つい悪態をついてしまった。
「夕凪さん……どうなさったの?」
そんな時いきなり奥で着物を選んでいると思っていた桜香さんの声が、背後からした。
「あっ」
桜香さんは俺の背中に隠れるような可愛らしい仕草で、信二郎のことを怪訝そうに覗き込んでいた。
「夕凪さん、あの……その方どなた?」
「あっ……うん。彼は坂田信二郎さんといって、うちの店で贔屓にしてる京友禅の絵師だ」
「そうなの? なにか揉めていたようだけど大丈夫? 夕凪さんってぼんやりしていらっしゃるから……もしかしてこの方に何かやらかしてしまった?」
「いっいや、なんでもないんだ」
「えっと坂田さんでしたっけ?夕凪さんが失礼したのなら、私からも謝りますわ」
「桜香さんっ!!」
もう冷や汗やらなにやら分からないものが、背中から流れ落ちて最悪な気分だ。 だいたい俺はすぐに考えていることが顔に出てしまい隠すってことが出来ないから……
しかし、なんだって女性はどうしてこうも詮索好きなんだ?
はぁ……もうこの場から消えたい。
「おい夕凪、一体……この女性は?」
「えっ……あぁ……えっと」
説明に戸惑っていると、信二郎の眼がきつく光った。
「もう夕凪さんったら、ご自分の許婚を満足に紹介も出来ないでいらっしゃるのね」
「はっ?婚約者?」
信二郎の瞳に途端に影が差す。
まずいな。怒らせたか……俺に許婚がいることを何度か話そうと思ったが、今日まで話せないでいた。
「へぇーそれはそれは初耳だな。絵師の坂田です……」
「まぁなんて素敵なお方なの!惚れ惚れするほど男前の絵師さんね~夕凪さんもそう思うでしょ?」
「えっ?あ……うん」
また変な会話を振られ、俺は笑顔も引きつり出す。信二郎は信二郎で笑っているが、明らかに怒っているじゃないか。
「夕凪、許婚が来ているところ悪かったな、今日はもう行くよ」
「えっ信二郎!」
帰ってしまうのか。
気を悪くしたのか。
「ちょっと待てよ」
慌てて草履を履いて追いかけようとすると、桜香さんが俺の腕をぐいぐい引っ張てくる。
結構強い力で苦笑してしまう。女って怖いな。
「もうっ夕凪さんったら、婚約者を置いて何処へ行かれるつもり?私の着物を選ばなくちゃ」
「あっそうだったね」
それにしても、桜香さんってこんなに強引だったか。
俺はいつもぼんやりと何も考えずに過ごしていて、相手が何を考えているかに鈍感すぎるのだ。今日ばかりはそのことに苦笑してしまう。
信二郎、お前……怒ってしまったのか。
不安な気持ちがモヤモヤと胸に立ち込める。
こんなにも信二郎のことばかりが気になるなんて、俺は一体どうしたのか。
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