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京へ続く道 2
誰よりも早く目覚めた。
「んっ……」
昨夜声を出し過ぎたせいだ。酷く喉が渇いていたので、文机の上に置かれている水差しを取ろうと上体を起こした。
「っつ……」
その拍子に、下半身には、久しぶりに男を受け入れた覚えのある鈍痛が走った。
確かに痛いけれども、痛くはない。
だってこれは愛を受けた証だから。
俺の方から欲した。二人同時にと……だから後悔はない。
和室にはいつの間にか布団が三枚敷かれ、俺はその真ん中で眠っていたようだ。律矢さんと信二郎に挟まれて、まるで大切に守られるように。
守られるだけの……頼りはない儚げなのが今の俺なんだ。
少しだけ自虐的な気持ちが立ち込める。
京都へ帰ったらのことに想いを馳せる。
何もかも忘れ、一からやり直したい。
もちろん一宮屋に戻れるわけではないし、大鷹屋に見つかるわけにはいかない。世を忍ぶ生き方になるかもしれなくても、それでも自分の足で立って生きていきたい。
守られるだけは嫌だ。
強く強くなりたい。
庭先へ下駄を履いて降りると、まだひんやりとした澄んだ空気を感じた。背後に静かな気配を感じて振り返ると、湖翠さんが同じく浴衣姿で立っていた。
「起きたのか。夕凪」
「ええ、早く目覚めてしまって」
「……」
何も言わないでじっと俺の躰を隈なく見つめる湖翠さんの眼。昨夜の情事を見透かされてしまった気がして、思わず頬をそめ顔を背けてしまった。
「夕凪、良かったね」
「え……」
「君はとうとう帰る場所を見つけ、帰る時が来たんだね」
「何故……」
湖翠さんは俺の何もかも知った上で、俺を行かそうとしてくれていることが伝わって来た。
「いいんだよ。何も話さなくても……夕凪が幸せならそれでいい。夕凪が幸せになろうとしているのなら応援したい」
「湖翠さん」
彼は年の離れた実の兄のような人だった。俺を助け世間の目から隔離し、時が傷を癒す時間を充分すぎるほど与えてくれた人なんだ。
「くっ」
別れが近づいていることをお互い知っている。
別れがたい縁も、お互い感じている。
どっと寂しい気持ちが押し寄せて来る。
涙となり、その感情が押し出されていく。
「うっ……うっ…」
「夕凪、泣くな。この花を見てご覧。僕はこの花が好きだ」
「あ……鷺草ですか」
寺の庭先に儚げに揺れるのは鷺草だった。
地面からまっすぐに茎を伸ばした先に繊細な花を咲かせている。花は真っ白で、三つに分かれた形をしている。左右の花びらに深い切れ込みがいくつも入っており、まるで白鷺の羽のようだ。
「この花の清純・繊細・夢でも君を想うという花言葉は、鷺草の真っ白で切れ込みの入った美しい花姿からつけられたそうだよ。これはまるで夕凪みたいだ」
「いや……清純で繊細なのは湖翠さんの方です」
そう告げると湖翠さんは悲し気に目を伏せた。
「違うよ。僕は本当はとても欲深い人間だ。それよりこの左右の花びらは律矢さんと信二郎くんみたいだね。夕凪が空高く羽ばたけるように、これからは二人が羽となって支えてくれるだろう。行きなさい夕凪。彼らと京都へ戻りなさい」
気高い声だった。
俺の方から告げないといけないことを、湖翠さんの方からすべて許し促してくれた。
彼等がいれば俺も再び空高く、あの鳥のように自由に羽ばたけるのか。
目を閉じると視界が橙色に染まった。
そう願う切なる気持ちを、生まれたての朝日が見事に染め上げていくのを感じた。
明けていく。
止まっていた時間が動き出す。
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