羽織る 3

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羽織る 3

「ねぇ~夕凪さんってば、どちらが良いかしら?」  桜香さんが微笑みながら二つの反物を見せてくる。 「えっ……うん」」  それよりも帰ってしまった信二郎のことが気になってしょうがない。いつものように、間話をしたかったな。何か新作の反物があったのかもしれない。どうしてすぐ帰ってしまったのか……まだ何も話せてないのに……寂しい。 「もぉぉぉ!夕凪さんっ」   頭の中で信二郎のことばかり考えていた俺の肩を、桜香さんがゆさゆさと揺さぶったので、はっと我に返った。 「夕凪さんっ酷いわ。今日はどうしていつもよりも、更にぼんやりなさっているの?」 「えっ……そんなことない。えっと……その反物が気に入ったの? そうだなこちらの方が似合うかな」 「待って! もっと良い着物があるかも。夕凪さん私もう少し選んでみるわ」  桜香さんは店内を再び、うろうろし出した。 「……いいよ。心ゆくまで選んで……はぁ」  桜香さんに気が付かれない様に、小さな溜息を漏らした。  しっかりしろ、許婚の婚約の着物を選んであげないといけないのに。何故だかまもなく結納をするという実感が、いつもより一層沸かなくて苦笑してしまう。本当にこんな調子で結婚なんて出来るのか。  桜香さんは確かに聡明で美しい女性だ。機転も利いて溌剌としていて、かわいらしいと思うのに、なんでこんなに心に穴がぽっかりと空いたように虚しさを感じているのだろうか。  桜香さんとなら、両親の望み通りの絵に描いたような幸せな新婚生活を送ることになるのだろう。なのに……何かが足りない。  信二郎が俺にくれたようなあの刺激はないだろう……俺にまた触れて欲しい。 「あら、この柄なんだかもの凄く素敵!」  桜香さんの弾んだ声にびくっとした。  あっ…まずい。  桜香さんが奥にしまっておいた信二郎が俺に作ってくれた着物を目聡く見つけてしまった。 「桜香さん……それはもう売約済みで仕立てたものだから」  静止する声なんて聞こえないようで、桜香さんはあっという間に着物を包みから出して、広げてしまった。 「すごいわ!吉祥文様が禍々しいほどに綺麗。これ程の素晴らしい柄は見たことがないわ」   感嘆の声をあげている。 「あっああ、そうだね」 「夕凪さんっ、私もこのような柄の着物を着たいわ。お結納にぴったりよね~」 「えっ……そうだね。でもさっきの方が良かったよ」 「夕凪さん話を逸らさないで! ねっどなたの作品なの? 独り占めは狡いわ。教えて下さらない?」  うぅ怖い。  なんだか目が怒ってるじゃないか。  女性は怒らせると強いものだな。 「さっき来た絵師の坂田さんのだよ」 「あら? あの素敵な男性のものなのね、ふぅん流石だわ。私もお頼みしたいわ。ねぇ夕凪さんから頼んでくださらない? 」 「え? 」 「これと似たような感じで、そうねぇお色は桜色にして……柄は…」  桜香さんが次々と厄介な注文を出してくるので、冷汗がつぅーっと滴る。 「でも夕凪さん、これどなたのご注文? ずいぶん背がお高い女性なのね? 」  ギクっとしてしまう。落ち着け、絶対ばれてはいけない。 「そっそうかな」  あぁもう……信二郎の奴!あんなことするから話がどんどんややっこしくなっていく。俺は誤魔化すのが下手なのに。 「ねぇ絵師は何処に住んでいらっしゃるの? 一緒に頼みに行きましょうよ」 「そ……それは」   絶対嫌だ! 「ん? いいでしょう? ねぇ~」  小首を傾げ甘えた声で、おねだりするような顔で頼まれてしまうと、俺はもうどう接したらいいのか分からない。妹や姉でもいれば、あしらい方を学んだのだろうか。断り方を思いつかない。とはいっても流石に二人で絵師のもとに行くなんて絶対にまずい。ぼんやりしている俺だって、 それはだけは分かる。 「……分かった。俺が行ってお願いしてみる」 「本当? 嬉しいわ~絶対よ」 「あぁ」 「あら~もうこんな時間。お母様に叱られてしまうわ。夕凪さん帰ります! 私」  桜香さんはバタバタと支度をして、帰ってしまった。風に揺れる長い髪に大きなリボン、袴から除くブーツも桜香さんらしく溌剌として可愛い。  もし俺に妹がいたらこんな感じなのか。そんな風に思いながら、ほっと安堵のため息を漏らして見送った。 「今日はどっと疲れた」
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