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残された日々 5
湖翠兄さんに見合い話か。
今までにも何度もあったことだ。いちいち驚くことではない。だが今回の見合いの相手は大事だ。
直感で兄さんは断り切れないと思った。同じ鎌倉内でしかも格上の寺の申し出というのが厄介だし、今までになく祖父が乗り気だった。
兄さんも結婚するにはよい歳だ。いやむしろ遅すぎる程だ。祖母が生きているうちに孫をみたいと願う気持ちが痛い程伝わって来た。
直接口には出さないが、息子夫婦を事故で失った痛みと孫への期待をひしひしと感じていた。
湖翠兄さんは、何故あんなにも頑なに見合いを拒むのか。そして何故俺も結婚しないのか。
寺の次男坊のくせに養子に出ることもせず、湖翠兄さんの傍いることを望んで選んで来たのか。
すべては兄のため。
そして俺の我が儘だ。
驕りなのか。
湖翠兄さんが俺を見つめる眼は、兄が弟を見る眼とは違う熱を孕んでいることに気が付いたのはいつだろう。
そしてそれを俺は心から嬉しく感じ、その想いを受け止めたい気持ちで最初は一杯だった。
だがそんなことをしたら、湖翠兄さんを傷つけてしまう。
この寺の住職としての職務を全うせねばならぬ人なんだ。後継ぎだって必要だ。俺達の代で由緒正しき寺を途絶えさすわけにはいかない。
それにしても、一度でいいから、すべてのしがらみから抜け出てみたかった。
夕凪のように……二人の男と共に、しかも一人は義理の兄という相手と生きるという、思い切った一歩を踏み出せたらどんなに良かったか。
それにしても祖父の忠告は効いたな。
直接触れ合ったわけでもないのに、あんな噂が立つなんて、きっと俺の行動に問題があったのだろう。
兄さんの名誉を守りたい。
先ほど縁側に座り夕凪からの手紙を嬉しそうに読んでいる兄の姿を、本当は茂みの向こうからずっと眺めていた。
あまりに美しくたおやかな姿で、足が動かなくなり、なかなか近づけなかった。
汚してはいけない世界だと思った。
そっといつまでも眺めていたい。傍にいさせて欲しい。
そう願って生きてきたが、とうとう俺にも限界が来たようだ。
夕凪が作ってくれた俺達の風呂敷のように、ふわりと重なることが出来たらどんなに良かったか。
兄さん……
湖翠……
あなたと結ばれることは、今生では無理のようです。
すまない。
一度でいいから、その淡い色の唇に触れて、そのたおやかな躰をこの胸に深く抱いてみたかった。
あなたの中に、入り込んでみたかった。
あなたを愛したかった。
ずっと気づかれないように隠し通し……振る舞っていたが……俺の躰はそろそろ限界のようだ。
俺はこの寺を出て、兄の前から消える時がついに来たようだ。
****
それから数日後、再び縁側に座っている兄の横へ座った。
「流水どうした?」
「……」
兄はいつものように眩しそうに俺のことを見つめ、花が咲くように優しく静かに微笑んだ。
今から俺はこの美しい笑顔を殺す。
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