心根 こころね 1

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心根 こころね 1

 京都 宇治山荘にて 「夕凪、今日は何をする予定だ?」 「ん……特に何も……そうだね、山荘の庭で植物のスケッチでもしようかと思うよ」 「こんな冬に? 寒いだろう」  心配そうに湯呑をちゃぶ台に置いて、信二郎が心配そうな表情を浮かべた。続いて隣に座る律矢さんも怪訝な顔をした。 「信二郎、律矢さん大丈夫だ。俺はもうこの生活に慣れた。ただ……」 「ただ?」 「うん……その、たまにはもっと外に出たくなる」 「そうか、お前をここに閉じ込めているつもりはない。ただ私達がまだ心配でなかなか外に出してやれなくて悪い」  二人とも悔しそうで、そして悲し気だ。信二郎も律矢さんも、決まってこの話になるとこんな表情を浮かべてしまう。  それはかつて俺が凌辱された過去を想い出させてしまうのだろう。どんなに上書きしてもらって、消えない事実はいつまでも存在してしまう。それはもう仕方がないことなのに。 「信二郎。律矢さん聞いてくれ。この生き方は俺自身が選んだものだ。だからこれでいい」 「だが京都に戻って来てから夕凪はこの山荘から外に一歩も出ていない。お前だってたまには街に行きたいだろう。まだ二十代の若者なんだ。隠居した老人でもあるまいし。よし今日は一緒に宇治市内に繰り出そう」 「えっいいのか」  確かに俺だって、たまには若旦那時代のように自由に街中を歩いてみたいと思うこともある。だから申し出を素直に喜んだ。 「当たり前だ。夕凪は放っておけば庭先で何時間でも座り込んでしまうから。風邪をひかないかといつも冷や冷やしている」 「ならば、久しぶりに茶団子が食べたいよ」 「ははっお安い御用だ。腹いっぱい食わせてやる」 **** 「夕凪、何を隠れている」 「だが……」  妙に二人とも市街地へ行くことをすんなり了解したと思ったら、まんまとはめられた。まさか女装をさせられるとは思わなかった。  宇治上神社へ参拝にいく人も多いのか、周りに着物姿の女性も多く、珍しいわけではない。  だが……だけど俺は男だ。  いくら素性がばれないように顔を隠す必要があると言っても無理があるよ。恥ずかしい気持ちで俯いていると、満面の笑みで信二郎と律矢さんが笑っている。  はぁ……いい気なものだ。  思えばかつて信二郎にも律矢さんにも。俺は女装をさせられたな。  ふたりとも何が楽しいんだか、ご丁寧にあっという間に長襦袢から何から何まで用意してきて。いやまるで……最初から用意してあったように周到さだったな。  鬘に白粉。薄化粧まで……これじゃ舞妓さんだ。  恥ずかしくて俯いてしまう。  ここで男だとバレるのはもっと恥ずかしいので、自然に歩き方も仕草も女性を習ってしまう。悲しいことに若旦那時代、散々女性の着物姿の所作を間近で見て来たのが役に立っている。 「ほら、いい加減に機嫌を直せよ。絶世の美女が台無しだ」 「でも……」 「次は平等院を見学しよう。それからお待ちかねの休憩だ。茶団子が待っているぞ」 「はぁ……」  だが歩き出せば、女装していることはともかく、本当に久しぶりに山奥の宇治の山荘から、宇治川を囲む賑やかな店が立ち並ぶ通りへやって来ると、楽しい気分になった。  高級茶の産地と知られるこの宇治は、風光明媚な土地柄で古くから栄えている。  かつては源氏物語の宇治十帖の舞台にもなった土地で、屋根に鳳凰をのせた平等院を見ていると平安時代へと想いを馳せてしまう。  これは懐かしい。なぜだかとても懐かしい風景だ。  もう……遠い遠い昔のことだ。穏やかな気持ちで愛する人の胸にもたれ、こんな風景を見たような、そんな錯覚を覚えるのは何故なのか。  ぼんやりと浮かぶのは誰。  あの七夕の日に出会った君と似ているような。 「ほら特別に十本も買ってきたぞ」 「こんなに?」  宇治橋の東詰にある甘味処で、律矢さんが約束通り茶団子を買ってくれた。  緑のお茶色のもちもちしたお団子だ。  仄かに甘く仄かに茶の香りが口に広がる。  懐かしい味だ。  かつて、ここには母と来たことがある。まだ小学生の頃。母の実家が宇治にあったので、よく夏休みに来たものだ。  何も知らなかった穢れなき少年時代が懐かしい。 「あの……少しだけ一人で歩いても?」  無性に思い出に浸りたくなって、そう願うと、新二郎も律矢さんも快諾してくれた。ただし宇治川の中州へとかかる朝霧橋までだと。 「いいぞ分かった。だが少しだけだぞ、あの橋までだ。俺達の視界から消えるな」  宇治川沿いの道を歩き出せば思い出す。俺だけが知っている道。俺だけの秘密基地。  朝霧橋を渡り、後ろをいざ振り返ると、平等院鳳凰堂の屋根の鳳凰が見えた。橋の上で立ち止まり思い出に耽っていると、向こうから若い女学生らしき人達が歩いて来た。  袴姿で足元はブーツと軽快な足取り。ふと華やかな雰囲気を振りまいて歩く、真ん中の髪の長い美しい女性に目が留まった。 「え……」  まさかこんなところで彼女とすれ違うなんて!彼女はかつて俺の許嫁で結納を控えていた女性。桜香さんだった。  桜香さんは美しい女性で、機転も利いて溌剌としていた。  俺が選ばなかった、もうひとつの人生の伴侶になる女性だった。  まずいっ……こんなところで。  慌てて顔を反らした。こんなところで、こんな姿で彼女に見つかるわけにはいかない。  彼女と顔を合わせたのは一宮屋を出た時が最後だ。もう一年近く前になる。  頼むっ……どうかこちらを見ないでくれ!  
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