心根 こころね 2

1/1
前へ
/174ページ
次へ

心根 こころね 2

 京都御所と二条城との中間にある一宮屋は、老舗の呉服屋。  私は半年前にこの店の養女となり、間もなく婿養子を迎え結婚する身なの。 「お帰りなさい、桜香さん」 「あ……お義母さま」 「まぁあなたって娘は、またそんな姿で」 「あっはい、申し訳ありません。着替えて参ります」  ブーツを慌てて脱ぎ階段をのぼって廊下を真っすぐ行った部屋に入り、扉にもたれて息を整える。  ふぅ……それにしても本当に今日は驚いたわ。あの人は、他人の空似よね。  女学校時代の友人たちと、朝から宇治に遊びに行ってきたの。そこで驚くことがあった。  朝霧橋ですれ違ったあの着物姿の女性は誰なの? 舞妓さん?そ れとも……あぁ彼女は何者か知らないけれども……すごく似ていた。そっくりだった。  周りに誰もいなかったら、絶対に話しかけたかった。  だって、あまりにも似ていたんですもの。私のかつての婚約者。許嫁だったあなたに。  彼女は女性で、彼は男性だから他人だってこと頭では理解しているのに、胸がざわつくの。  夕凪さん── 今、どこにいるの? 生きているの?  私の人生も、あなたが消えるのと同時にがらりと変わってしまったのよ。まさかあなたが生まれ育った家で、あなたもいないのに暮らすことになるなんてね。  私は呉服屋の三女として生まれた。  お見合いをしあなたが跡目を継ぐはずだった一宮屋に嫁ぐことが決まった時は、嬉しくて天にも昇るような気持だったのよ。  女学生だった私にとって、京都の呉服屋の若旦那集の中で、とびきり綺麗でかっこいい優しいあなたのお嫁さんになれることが、まるで夢物語のようだったのに。  大人の事情── そんなこと知らない。  何故だか、あなたはある日姿を忽然と消してしまった。そしてすぐに婚約は解消された。 結納を目前にして、衣装まで選んでいた段階だったのよ。何が起きたのか分からないうちに、今度は私に結納の代わりに一宮屋への養女の話が舞い込み、私の意志なんて関係なく、私が夕凪さんの代わりにこの家で暮らすことになった。  何度も聞いたわ。夕凪さんの行方を。でも周りの大人たちは誰も教えてくれなかった。  とうとう夕凪さんのお母さまから聞き出した言葉は、彼は出奔して二度と私たちの前には現れないということだった。  悲しかった。  寂しかった。  まだ私は若く、あどけない恋心だったけれども…確かに夕凪さんのことを想っていた。  だから……せめて、彼がいつかこの家に帰ってきてもいいように、この家を守っていこうと思った。だって……あなたは私の初恋の人だから。  そっと文机から一枚の写真を取り出した。  それは唯一手元に残った夕凪さんのお見合い写真。  和装姿で柔和に微笑む美男子。  私がこの家に来ると決まったとき、夕凪さんが使っていたこの部屋の荷物は全部捨てられ改装されていた。期待していた彼の私物は何一つ残っていなかった。  初恋の君よ。あなたは。  でもそろそろこの写真も封印しないとね。  私はまもなく違う人と結婚するわ。やはり老舗呉服屋の三男坊の朝弥(ともや)さんという方よ。彼は良い人なの。  夕凪さんと破談になり悲しむ私を慰め、事情も知った上でこの家にやってきてくれるの。だからもう彼と生きて行くわ。そう決めているのよ。でもね、あなたが愛した一宮屋だけはせめて私に守らせて、女将としてしっかりやっていくわ。  それにしても……宇治のあの女性は、本当によく似ていた。  こんなにも動揺し、あなたのことを懐かしく思い出すのは、彼女のせいね。  あれから彼女の足取りを宇治川の向こう岸で静かに見守ったわ。  やがて女性を守るように背が高い男性が二人現れ、消えて行った。  遠目だったので男性の顔は見えなかったけれども、山奥へ続く道へ静かに吸い込まれるように消えていく後ろ姿がまばゆかった。  とても幸せそうだった。    慈愛に満ちた光景だった。
/174ページ

最初のコメントを投稿しよう!

776人が本棚に入れています
本棚に追加