776人が本棚に入れています
本棚に追加
羽織る 4
変な約束をしてしまった。絵師の元へ婚約者の反物の絵付けを頼みに行く羽目になるなんて……信二郎が仕立てくれた吉祥文様の煌びやかな反物を眺めつつ、深いため息をつく。
「あの母様、今から少し出掛けてきます」
「 あら夕凪さん、何方へ行かれるの? こんな時間から外出なんて珍しいわね」
「桜香さんに頼まれて絵師の坂田さんの所へ行ってきます。その……反物の絵付けの相談に」
「まぁ夕凪さん感心なことね。嬉しいわ。やっと重い腰をあげて結納に前向きになってくれたのね」
「えっ? いや……そういうわけでは」
「ここ最近のあなたは、いつもに増して上の空で心配していましたのよ」
「そっそうでしょうか」
「気を付けていってらっしゃい」
「ええ」
きっと上の空だったのは信二郎のせいだ。信二郎のことで頭がいっぱいだったなんて言えるはずもなく、顔を赤らめるのみで何も返答できなかった。
****
夕暮れに染まる京の街並み、行き交う人力車を避けながら俺は黙々と歩く。
住所のメモを片手に。
祇園の……このあたりか?
絵師の家は一体何処だ?
ずいぶん華やかな処に住んでいるんだな、あいつ。
手慣れていた。俺を抱くその手が……俺が感じる箇所をまるですべて分かっているように、滑るように俺の躰を信二郎の指が動いていった。あいつにとって男を抱くなんて当たり前の日常茶飯事だったのか。俺はただ遊ばれただけ? 男が男に遊ばれただけなんて思うこと自体がおかしいよな。
こんなこと誰にも相談できない。
でも……俺は秘密に慣れていない。
この気持ちをどこに置いたらいいのか分からない。
慣れない自分の気持ちを持てあましている。
それにしても分かりくいな。入り組んだ路地をあちらか、こちらかと右往左往している自分が滑稽にすら思えてくる。どうやら、もともと方向音痴の俺はすっかり道に迷ってしまったようだ。その時すっと横を横切る黒い物体に遭遇した。
「何だ?」
びくっと驚いて大きく一歩退き目を凝らすと、黒い物体は黒猫だった。
「ふぅ……なんだ猫か」
どうやら道に迷っているうちにすっかり日が暮れて夜になってしまったのだな。 路地裏は暗く、ますます道が分からなくなってしまう。
「あぁ参った。困ったな」
ったく、何年京都に住んでいるだよ、俺はどうしてこうも方向音痴なんだと、 自分に嫌気がさしてくる。 昔から友人から「夕凪……お前鈍感すぎ」と散々馬鹿にされてきたのは事実だ。 学生時代、一緒に出掛けた女の子からも「もうじれったい!」と呆れらることが多かった。
俺は俺なのに……何かが人と少しずれているのかと、たまに不安になる。
散々歩き回ったせいか、履いている草履の鼻緒が食い込んで痛くなってきた。
「つっ……痛っ」
昼間せっかく訪ねて来てくれた信二郎を怒らせた気がして、どうもあれから心がざわざわと落ち着かない。
会いたくて寂しくて……心配で。
変な気持ちが胸につっかえて苦しい。
「会いたい」
いよいよ疲れ果て道端の段差に腰をかけ足を休憩させていると、さっきの猫が鈴を鳴らして足元に近寄ってくる。
「ニャァー」
「よしよし、お前は鈴をつけているから飼い猫か。可愛い奴だな」
「ニャー」
すりすりと鼻を俺の足元に押し付けてくる。ふと自分の足を見ると足袋に少し血が滲んでいた。そうか……やっぱりこの鼻緒きつかったのだな。擦れてしまったみたいで血まででている。はぁ……参った。
「なんだ? お前、猫の癖に心配してくれるのか」
「ニャ」
「ふっ可愛い」
そんな風に猫相手に会話をしていると、さっきまでの焦った気持ちが和らいできた。すると通りの向こうから背の高い若い男性が近づいてくる足音が聞こえた。
ゆらゆらと近寄ってくる長い影。
一体こんな路地に何の用だろう?
ちょっと身構えてしまう。
心配を他所に、影の主は優し気な声を発した。
「クロ~おーい、どこだ? もう帰るぞ」
あっこの声は……もしかして。
最初のコメントを投稿しよう!