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心根 こころね 5
「俺の荷物は、どこですか」
「ん? ここじゃよ」
黄泉の国へすぐに行くつもりで、必要最低限の荷物しか持って来なかった。僧侶が手渡してくれた俺の手提げ袋の中から、折りたたんだ風呂敷を取り出した。
この風呂敷は京都に帰った夕凪が染め上げて送ってくれたもの。
湖翠は翡翠のような深い森のような色合いで、俺は蒼い海のような色だった。月影寺の庭先で、湖翠とこの風呂敷を重ねて心を通じあった時が懐かしい。
風呂敷を震える手で開くと、中に一枚の荷札が入っていた。
記載された夕凪が住む宇治の住所は、俺達を信じてくれた証。
行こう!
この心臓が持つ限り!
あの松林で俺の寿命が尽きなかったのには、理由があるのかもしれない。
夕凪に……せめて夕凪に会ってから、逝けというのだろうか。
「会いに行きます」
「辛いだろが。そうしなさい。そなたはあんなところで朽ちていい人間ではない」
そう諭され、翌日寺を後にした。
覚悟を決めたせいか、俺の心臓は幾分持ち直していた。
といっても電車で揺られるだけでも堪える身に成り果てていたが……健康だけが自慢の強靭だった身体が、まさかこんな風になるなんて。
心を感じる肝心な部分から苛まれるなんて、夢にも思わなかった。
人生は本当に分からない。
儚い……ものだ。
後悔ばかりが残る。
せめて一つだけでもその後悔を減らしたい。
夕凪、俺達が愛した弟のような君に会うことで……
****
「桜香またね〜楽しかったわ。次はあなたの結婚式ね」
「ええ! ぜひいらしてね」
その日は京都駅まで珍しく来ていたの。
女学生時代の友人を見送って帰ろうとした時に、駅の改札で、長身の男の人が心臓を押さえ苦悶の表情を浮かべ、突然ドサッと倒れた。
「きゃー誰か!人が倒れたわ!」
私も近くにいたからすぐに駆けつけたわ。
「大丈夫ですか!」
男性は胸ポケットから薬を取り出して、喘ぐように苦しげに悶えていた。手が震え上手く瓶が開けられないようだった。
「こっこのお薬なのね!」
私は女学校時代に保健の授業で学んだ応急処置を思い出し、急いで瓶から薬を取り出して彼に飲ましてあげた。すると彼はなんとか嚥下してくれ、呼吸も幾分落ち着いてきたようだ。
「はぁ……はぁ…」
集まって来た人は彼の息が整ってきたのを確認して、散っていったけれども、私は放っておけなくて、離れられなかった。だって……こんなに弱っているのに。
「あの……大丈夫ですか」
駅の大きな柱にもたれている男性に、もう一度声を掛けた。
「あぁ、すまない。助かった」
「いえ……びっくりしました。心臓がかなりお悪いみたいですが」
彼は力なく笑った。やつれて憔悴しているが、大らかな魅力的な笑みを浮かる丹精な面持ちの青年だった。きっともっと元気な頃はかなりの美丈夫だったのだろう。大柄な体躯で見栄えがよいわ。夕凪さんとは真逆のタイプね。
「不甲斐ないな、こんな姿。やっと京都に着いたというのに」
「あの……どこかに行かれるのですか。誰か呼びますか」
「あぁ、人に会いに。あの……宇治へはどうやっていくのか教えてくれますか」
突然『宇治』と言われて驚いてしまった。
だって……ついこの前夕凪さんにそっくりな女性を見かけたばかりで、私にとって宇治は気になる土地となっていたから。
「宇治のどちらへ? 連絡して迎えに来てもらいますか。その躰じゃ」
「あぁすみません。参ったな……こんなはずじゃ……もう心臓がもたないかもしれない。一刻も早く行きたいのに、くそっ、うっまた胸が! あぁ……くっ」
彼の意識はそこで途絶えてしまった。顔は蒼白で冷や汗が浮かんでいる。バタンと大きな体が冷たい駅の床に投げ出されてしまった。
「なんてこと! 誰かっ救急車を! お医者様を!」
私はありったけの声で叫んでいた。
巻き込まれていく、何かに……そう感じながら、大声で泣きながら叫んでいた。
死んでしまう。
早くしないとこの人が死んでしまう!!!
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志生帆 海です。いつも読んでくださってありがとうございます。
流水さんの心臓病の症状の描写は、勝手なフィクションです。
医療知識がないため違和感を感じるかもしれませんが、どうかご了承くださいませ
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