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心根 こころね 8
どんどん日が暮れてしまう。
困ったわ。流石にそろそろ家に戻らないと義母に叱られてしまうわ。ただでさえいつも「嫁入り前の娘があちこち出かけすぎですよ」といい顔をされないのに。
でも病院の話では、『夕顔』という男性と連絡がついて今この病院へ向かっているそう。
男性……そうよね、やっぱり男性なのね。
会いたい……会ってみたい。でも怖い。
現れるのは、私の婚約者だった夕凪さん、あなたなの?
あなたは、あの宇治で見かけた人なの?
今更、顔を合わせるのが怖くなり、私は一旦病室から出て廊下の衝立の影に隠れた。
私の心臓の音なのか、時計の音なのか。心臓が恐ろしい速さで早鐘を打ち、足も震える。
一時間ほど過ぎた時に、暗い廊下に電気がつき、向こうから人の足音がしたので、そっと覗くと、それは息をするのも忘れそうな光景だった。
長身の体格のよい美丈夫な男性に両脇を守られるように歩いてくるのは……確かに夕凪さん、あなただった。
凛とした美しい和装姿。失踪した時と寸分も変わらない美貌。さらに艶やかさを増したような表情で、まっすぐに背筋を伸ばしてこちらへ足早に向かってくる。
「あっ」
途中、夕凪さんが転びそうになると、すぐさま彼の華奢な腕を、横を歩く男達が支えた。
その時、私の心臓がトクンと反応した。
この感じ……彼らは一体?
それをきっかけに彼らは廊下で相談し始めた。どうやら先に医師の説明を受けたようで、今後のことを話しあっているらしい。
「夕凪、大丈夫か、しっかりしろ」
「あぁ、信二郎、律矢さん、俺がしっかりしないと……あの人は俺の兄のような人なのだから。まさか……そんなに悪いなんて」
「夕凪、気を落とすな。まだいくらかの時間があるそうだ。宇治の山荘に連れて帰ろう。俺達で看取ろう」
「ありがとう」
「気を落とすな、さぁ気持ちを切り替えて対面しよう」
私には何故かすべてが分かってしまった。
信二郎という男性は一宮屋で会ったことがあった出入りの絵師で、そしてもう一人は、大鷹屋の若旦那よ。
展示館で顔を見たことがあるわ。でも……あんな大店の若旦那が何故。
あぁそうだ、大鷹屋というのは婚約が破談してすぐに夕凪さんが修行に行った先だわ。
夕凪さん、今……あなたはこの人達と暮らしているの?
何もかも信頼しあっている様子で溢れている。
出る幕なんてない。
私はここにいるべきじゃない。
見つかる前に去らないと……
そう思うと、一歩また一歩と後ろへ退いていった。
さよなら……
幸せになって欲しい人。
涙で滲む目元をハンカチで押さえ、夕凪さんたちが歩き出す前に私は逆方向へ。
もうきっと二度と会えないのね。
私の初恋の人。
もう、きっと住む世界が違うのね。
こんな一方的な再会は、いつまでも心の奥底に夕凪さんへの未練を残していた私への餞別なのかしら。
そこからはもう振り返らずに歩んだ。
家に帰り自分の部屋に戻ると、一気に気が抜けてぺたんと床に座り込んでしまった。
その時初めて、病院の先生に返してもらった荷札を握りしめたままだったことに気が付いた。
手の平に載せて、まじまじと見つめた。これは夕凪さんの住んでいる住所。
失踪したことになっている貴方にとって、すごく大切なものよね。誰かに見つかったら大変だとは分かっているのに、焼き捨てることが出来ない。
一生の秘密。
私が身罷る時には焼き捨てるから。
せめてこれだけは持っていさせて。
あなたの文字……あなたの筆跡を辿りたい。
淡い恋だったけれども、本気だった。
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