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心根 こころね 9
白いベッドに横たわる蒼白な顔色の流水さん。
その姿に心臓が潰されるようだ。
「何故こんなことに……数か月前、北鎌倉で俺を見送ってくれたばかりなのに。あの時はあんなに元気に快活に笑っていたのに、信じられない」
健康な強靭な身体、明るい快活な心を持っていた人だった。あまりの変わりように衝撃を受け、クラっと眩暈がし倒れそうになったところを、後ろから信二郎に支えられた。
律矢さんが横たわる身体の耳元に、話しかけた。
「流水さん、流水さん、起きられますか」
「うっ……」
すると、暫しの間を置いて、流水さんの瞼が震えた。
俺も慌てて顔を近づけた。
****
朧げに霞む視界。白い霧の向こうに大事な顔を見つけた。
卵型の美しい輪郭に、潤んだ黒目がちな目元。
切れ長の瞳は、涼し気で甘さを含んでいる。
美しい顔と美しい心を持っていることが、滲み出ている品の良さ。
あぁ……君は俺と湖翠で助けた末弟のような大切な存在の夕凪だ。俺が最期に会おうと思って、力を振り絞った相手だ。
「ゆ……う……な……ぎ?」
「流水さんっ」
夕凪が細い指先を俺の手に絡め、そこに額をつけて震えている。
「どうして泣いている? もう悲しいことなんてないだろう? 京都で何かあったのか」
夕凪はそのまま頭を左右にふるふると振った。
「俺は……幸せに暮らしています。でも、どうして流水さんがこんな目に」
周囲を見渡せばどうやら病院の寝台に仰向けに寝ているようだ。そうか……俺は駅で心臓発作を起こし、女性に介抱されたことまで覚えている。あの女性はどこに?
「駅で助けてくれた女性はどこだ? 」
「俺達が来た時には病室には誰もいなかったですが。でも流水さんにここまで付き添って来てくれた女性がいるとは聞いています」
「そうか……礼を言いたかったのに残念だな」
「それより、湖翠さんとはどうなっているんですか。病の流水さんがこんな場所まで一人で来るなんて……」
「湖翠には言うな。絶対に! 」
「そんな……それは何故ですか」
夕凪は納得がいかない表情を浮かべていた。
それもそうだろう。夕凪が北鎌倉で過ごしていた頃からは想像できないだろう。あれから俺が兄である湖翠に何をしたか。どんな状況で捨てて来たのか。
唇を無意識にきつく噛みしめていたようだ。
「深い……事情があるのですね。わかりました」
聡い夕凪のことだ。すぐに何かを察したような面持ちとなっていた。
「夕凪にも会えたし……もうこれで思い残すことはないな」
「何を言っているんですか。やめてください! そんな、そんな悲しいことを言うのは」
「ふっもういいのだ。己が寿命は知っている。もうこれでいい。ここでいい」
「駄目です! 俺と……俺達と宇治に行きましょう。あそこは北鎌倉の月影寺を彷彿するような庭があります。空気も良いし……せめて俺に何かさせて下さい」
涙を溜めた目で、必死に懇願される。あぁそうだった。俺はこの目に弱いのだ。俺を夕凪たちの暮らす山荘に連れていくというのか。そのことを律矢と信二郎も同意しているようだ。
「分かったよ。分かったからもう泣くな。俺は……お前の涙に弱い」
あと何日持つのだろう。この心臓が動かなくなるまで、息が止まるまで……せめてその日まで、この人たちにもとで過ごしてもいいのか。
俺だって、本当は……
死は怖い。
だが、避けられない。
ひとりは怖い。
湖翠が近くにいない寂しさに埋もれて死ぬつもりだったが、最期に小さな欲が産まれた。
許されるだろうか……
この人たちの家から旅立つことを。
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