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心根 こころね 10
気が付いた時には、俺は清潔な布団に寝かされていた。どうやら病院から宇治へ移送される際に発作が起きて、また気を失ってしまったようだ。
まったく不甲斐ないし、情けない。
少し前まで北鎌倉の裏山を、大空を羽ばたく鳥の如く自由自在に駆け巡っていたとは思えぬ躰の衰退だ。
いよいよ……迫ってきている。
この世との別れの時が、刻一刻と。
そんなことは、もうあの海辺で覚悟したはずなのに、やはり未練というものを、人並みに持ち合わせているらしい。
こんな俺でも……
乾いた笑いが零れ落ちた。
部屋の雪見障子からは、宇治と思われる美しい庭が広がっていた。
これがそうなのか……夕凪の言っていた、夕凪が愛している庭か。
まるで……確かにあの北鎌倉のような趣だだ。手を入れ過ぎていない、自然が折り重なるように作られた庭だ。
「湖翠……」
その木陰に湖翠がいるような気がして、俺は名を呼んでしまう。
あの日捨てるように置いて来た大事な兄。大事な想い人は、今頃どうしているだろうか。
****
「流水……」
流水が消えてしまった月影寺の庭を、今日も暇さえあれば見つめてしまう。
あの朝、薬の効力がようやく消え、やっと自分の足で歩けるようになるまでには、数時間かかった。
(流水っ……流水……っ)
声が枯れるほど叫び、喉が張り裂ける程、呼んだ。
だがどんなに森を彷徨っても、流水の痕跡は綺麗に消えていた。
(どうして僕を置いて……)
どうして僕を、置いて行ったのか。
流水の本心。それは僕の求めていたものだったのに。
僕の覚悟が足りなかったのか、流水の本心は闇へと葬られ、僕に残されたのは、この月影寺を後世に伝えていくためだけの使命のような婚姻だけ。
なんて虚しく……なんて哀しい人生だ。
流水がいない世の中とは、こんなにも色のない世界だったのか。
****
「嫌です。それだけは!」
「湖翠や、我が儘もいい加減にしなさい。弟が出て行った今となっては、この寺を継ぐのはお前だけじゃ。今すぐ婚姻しなさい。そして子を成すのじゃ」
「無理です」
「いい加減にせいっ!」
祖父から一喝された。
祖父が言うことも分かる。僕が婚姻して継がないといけないものがあることも。
流水の最後の願いもそうだった。
いつかまた……もっと先の世界で会おうと。そのために僕の血を繋いでくれと言っていた。
「せめて相手はこの鎌倉の人じゃない人を……せめてもの、お願いです」
「うぅぅむ。困ったのお。先方はもうその気だというのに」
祖父が持って来た見合い話の相手は、鎌倉でも五山の指に入る建海寺の長女だった。だが僕は鎌倉の女性を受け入れることが出来ないと、必死に抵抗した。
この地で育った、この地の太陽を浴びた、空気を吸った人の身体に触れることは出来ない。
何故だか強く思った。
それは僕の躰が覚えているから。
夢現だったが、あれは現実だ。
去っていく流水が僕の躰の奥に植え付けたもの。
弟は僕を抱いた。
僕は弟に抱かれた。
その痕跡は僕の躰の中に、流水の魂のように残っている。
「しょうがない……では、他の候補から選ぼう。その代わりもう二度と避けられないぞ。分かったな」
「……はい」
流水との約束を果たすため、出来ること。
僕がもう一度いつかきっと流水の魂に会うには、結婚という道しかないなんて……悲惨な現実を、頭を垂れて受け入れることしか出来ないなんて。
こんな現実が待っていたなんて。
流水、お前は今何処にいる?
会いたいよ……会いたくて堪らない。
でも、もう会えない。
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