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心根 こころね 11
目を瞑ってうつらうつらしていると、廊下で微かな物音がした。
古い床板の軋む音と軽やかな足音に、北鎌倉で兄さんと夕凪と暮らしていた頃のことを思い出す。
あれは、つかの間の一年だったが、夢のような時間だった。
匿っていた夕凪を北鎌倉の敷地から出すこともなく、兄さんも俺も、ひたすらに三人で過ごす時間を大切にしていた。
夕凪は京都の老舗具服やの跡取りで若旦那をしていただけあって、品も教養も高い賢く美しい青年だった。
そして何より優しく従順で、兄さんも俺もすぐそんな人柄が好きになった。だからこそ凌辱されたという不幸な傷を癒してやりたくて、繭で包むように守ってやっていた。
そうだ……夏には俺が町で買ってきた線香花火を縁側でやったよな。大きな球がピカピカと雷光のように光り、手元で瞬いていた。それから大きな西瓜を割って、一緒に食べたな。
笑い声が庭に木魂した。
傷も癒え周りに興味が出て来た夕凪に絵付けのことを教えてやったり、陶芸の手ほどきもしてやった。
袈裟姿の兄さんはいつも柱にもたれて、その様子を楽しそうに嬉しそうに見つめていた。
ずっと兄さんと俺だけだった世界が、夕凪が加わることでどんどん色を帯び、華やかになっていった。
意識しあって年々気まずくなっていた兄さんとも、夕凪の話ならいくらでも弾んだ。どうやったら夕凪が幸せになれるか、そのことばかり話し合ったよな。
兄さん……俺達は、あの頃幸せだったよな。
未来があったよな。
小さな足音は、俺の寝ている部屋で停まった。そのまま躊躇しているようで、うんともすんとも言わない。
「夕凪か」
「……はい。あの入ってもいいですか」
「あぁ」
もう俺の身体は、自由に起こすこともままならないほど、衰弱していた。きっと次の発作には、もうこの身体は耐えられぬだろう。
いよいよ本物の死期というものが迫っていることを覚悟していた。夕凪の血色の良い顔を見るのが、眩しい程だ。
「流水さん……お加減はいかがですか」
「夕凪、悪いな。お前に何もかも世話をさせてしまって」
「とんでもないです。流水さんは俺の命の恩人です。あの日俺を見つけて助けてくれたから。
もしもあの時お二人が通りかからなかったら、俺はあのまま死んでいたかもしれない」
そこまで夕凪は思いつめた顔で、言い放った。
「すまない。嫌なこと思い出させたな。来いよ」
「流水さん……」
夕凪は俺の手にその手を重ねながら、哀願するようにいつもの話をした。
「お願いです。湖翠さんをここに呼びましょう。一刻も早く知らせないと。流水さんがこんな状況だということを……」
「いや湖翠には知らせるな。知らせないでくれ。ちゃんと俺達は決別してきたのだから」
「でもっ! 今ならまだ間に合う、後悔しませんか」
「……もう会いたくない」
「夢に見ます。湖翠さんが流水さんが探し求めて、裸足の足を血だらけにしながら森を彷徨っている様子を」
「そんな夢を? 」
胸が押しつぶされる思いだ。だがここで揺らいではいけない。
何のために最後に湖翠に薬まで飲ませて抱いたのか。あの覚悟はなんだったのだと自分を戒める。
もう二度と会えない、会わないためだ。
それでも……もしも許されるのなら、いつか、いつの日かまた出逢いたい。
一番近いところに生まれたい。
今度は、もっと時間が欲しい。
男と男とか兄弟とか、そんなしがらみを飛び越えられる覚悟を持てるだけの時間を与えて欲しい。
「なぁ夕凪……最期に頼まれてくれるか」
「……何をですか」
「夕凪が最期を看取ってくれよ。ひとりであの世へ行くのは怖いもんだな。ははっ……」
柄にもない頼みごとをした。
「うっ……」
夕凪の眼からはみるみる涙が溢れて来た。
「逝かないで……まだ俺の傍にいてください」
「人の命には寿命というものがあるんだよ。それが来ただけだ。もう少し生きてみたかったが、今生はここまでのようだ」
その晩夕凪は、ずっと俺の手を握り締めてくれていた。
人のぬくもり。
温かい。
それは愛した人を思い出す。
夕凪……君は幸せになれよ。
一つ呼吸をするたびに、胸が潰されるほど傷んだ。
俺の心臓はもう……
俺の時間はもう……
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