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駄目だ。これ以上はもう……
そう思うのに信二郎の手を取ってしまった。
「来いよ、まず風呂に入って来いよ。その足、ちゃんと治療してやるから」
すっかり忘れていた。足元を見ると信二郎に借りたハンカチに血が滲んでいた。
「あっ悪い! 信二郎のハンカチなのに汚してしまったな」
「そんなことは構わない」
「ありがとう」
信二郎はぶっきらぼうだが、いつも優しい。そのまま腕をぐいっと掴まれ1階の奥にある風呂場へ連れて行かれる。普通の家庭サイズの風呂場だが、湯船が檜で出来ていた。
「へぇ檜か。いい香りだな」
「そうか。お前の方がいい香りがするのに」
信二郎に背後から腰を抱かれ、信二郎に首筋付近で低く甘い声で囁かれると俺の中の何かが危うくなってくる。
「はっ離れろよ。風呂位一人で入らせろ!」
「ふっ」
信二郎が目を細めて、俺のことを見下ろしている。
「夕凪、風呂あがったらこれを着るといい」
手渡されたのは、白地の浴衣だった。
「これは新品じゃないのか。悪いよ」
「お前のために用意した。遠慮するな」
「風呂からあがったら一緒に今で酒を飲もう。つまみでも用意しておくよ」
「あっうん……いいね」
****
「ふぅ」
檜の良い香り立ち込める湯船に浸かりながら、思わず長い溜息を漏らしてしまった。一体俺はどうして信二郎の自宅の風呂に入っているのだろう。確か桜香さんに頼まれた用事で来たはずなのに。参ったな。さっきまでそのことがすっかり抜け落ちていた。
やはり先日、信二郎と男なのに肌を重ねてしまってから、俺の中の何かが狂ってしまったのか。湯気で霞む視界の先に、あの日の情事が蘇っていく。すると、どんどん信二郎に触れられた箇所が熱を帯び、躰が開かれ乱れていったあの日の感覚までもが躰を支配する。
このままでは、のぼせそうだ。
信二郎に溺れそうだ。
****
駄目だ。あいつはやめておけ。
お前には綺麗すぎる相手だ。
そう心の中で声がする。
引き返すのなら今だ。夕凪とこれ以上深入りする前に冷たく突き放すのだ。
昼間、夕凪に許婚の女性を紹介された時、私は柄にもなくショックを受けてしまったようだ。夕凪とは少し距離を置いた方がいいのか迷い、そのまま帰って来た。
それなのに路地裏で足を痛めて右往左往していた夕凪と出逢ってしまえば、夕凪の美しさと桜吹雪に酔いしれ、路上で熱い口づけ、それ以上のことをしてしまう始末だ。
このまま自宅に連れ込んで抱きつぶしたい。そんな思いで自宅へ連れ込んだのに、煩悩にブレーキをかけるように、あの婚約者の女性の顔がちらつく。
「くそッ」
取引先の老舗の呉服屋。その一人息子で親の愛情を一身に受けて育った天真爛漫な夕凪。あの可愛らしくも少し勝気な許婚は、夕凪みたいな優しい男にぴったりだろう。
私がこれ以上夕凪に関わると、夕凪の未来をどんどん潰していくことになる。それに気が付いてしまった。最初は己の欲情のままに穢れない夕凪を私色に染めることに夢中だったのに、どうしてこんなことまで気になり出したのか。
「はっ、馬鹿げている」
夕凪のために酒の肴を用意する手は、いつの間にか止まっていた。
今宵は長い夜になるのか。
短い夜になるのか。
こんなにも先が見えない夜はあっただろうか。
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