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隔てられて 6
律矢さんの胸に抱かれたまま、また夜明けを迎えた。次第に暁色に染まっていく空に誘われて一足先に目覚めた俺は朝露に濡れる庭に降りてみた。
山奥の山荘らしく自然のままの勢いで咲き乱れる草花がさわさわと揺れる儚い庭だが、ここはとても落ち着く。この不安定な毎日の中で、この庭を眺めるのだけが唯一の楽しみだった。
風がさぁーっと草花を揺らしながら吹き抜けていくと、俺の心にも涼しい風が通り過ぎて行った。
風は俺の心を何処へ運ぼうとしているのか。俺は心の奥底に行先の分からない想いを抱えているままなのに。この空っぽの心の底にわずかに残った想いに付ける名前が浮かばない。
甘く懐かしい想いがこみ上げてくる。
これは誰に抱いたものだったのか、もう思い出せない。大切な何かを忘れているような、心もとない気持ちだけを今日も抱いて過ごすのだろう。
くしゅんっ
小さなくしゃみが出た。さすがに浴衣一枚では山奥の朝の冷え込みが堪えるな……もう部屋に戻ろうとした時、庭の片隅に揺れる白き花を見つけた。
あれは……何の花だったか。
近くまで寄ってみると白い鷺草だった。羽ばたくように咲く儚くか弱い花だ。風に煽られて、恐怖で震えているようにすらに見える。
お前……そんなに何に怯えている?
まるで自分に問うように、花に問いかけていた。
今にも折れそうな震えるこの小さな花を守ってやりたい。この花が風に手折られる前に、必死に風に向かって生きている花の姿を描いてみたい。
その時初めて俺が今したいことが浮かんだ。昨夜、律矢さんに何かしたいことはないのかと問われた時は何も思い浮かばなかったのに。絵をまともに描いたのは一体いつだったか。
小さい頃から絵を描くことが好きだった。
紙と鉛筆さえあれば何時間でも時間を潰せたほどだ。
学生の頃、美術の時間が大好きだった。
その道に進みたいとも思う程、好きだったことを今頃思い出した。
すっかり忘れていたな、とうの昔に捨てた夢のことなんてさ。
若旦那として家業を継ぐことは生まれた時から決まっていた事で、道を逸れるなんて到底許される立場ではなかった。
幼い頃から宝物に触れるように大事にしてくれた両親だったが、時々感じた他人を見るような眼差しに何故か絶対に服従しないといけない厳しさを感じていた。
やはり実の親でなかったのだ。幼い頃から抱いていた疑問だった。こんな状況になっても助けも音沙汰もないのがその証拠だ。そう考えると妙に納得出来た。
疲れた。何もかも……もう考えるのはよそう。
結局あの家で過ごした日々は、砂上の楼閣のようなものだったのだ。
そうだ……俺はここで絵を描いてみよう。この庭の草花の姿を残してやりたい。そう思うと気持ちが少し前向きになっていった。
その時、縁側から声がかかった。
「夕凪、そこにいたのか。心配したぞ」
振り返ると律矢さんが立っていた。心配そうに見つめられて、なんだか居心地が悪い。
「すみません」
「冷えただろう。これを着て」
そう言いながらふわっと羽織をかけてくれる。
「……ありがとうございます」
本当は優しい人なのかもしれない。
この人が俺を望んでくれるように、俺もこの人を望めるようになるのだろうか。
でも自由を奪われ、こうやって手を引かれ、また籠の中へ連れ戻されていくのに。
夜な夜な羽をむしり取るように、躰を奪われるのに。
籠の中の鳥の俺には、外の世界が遠く遠く、眩しい……
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