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隔てられて 8
「夕凪こちらへおいで」
律矢さんに手を引かれ、胡坐をかいたその中に座るように誘われる。そしてスケッチブックをめくる手を背後から押さえられてしまった。
律矢さんの躰が近い。律矢さんが話す度に息が首筋に届いてくすぐったい。もう何日も俺はこうやって律矢さんの腕の中で過ごしている気がする。
「この女性……懐かしいな。そうか夕凪を見て一目惚れをしたのはこの女性のせいだったのか」
「この女性は一体誰です? 」
「あぁ……ずっと昔、父の所へ仕事で出入りした絵師だったよ。彼女は凄く美しい人で息を呑んだのを思い出す。俺がまだ子供の頃の話さ、なんだか懐かしいな」
「……似ていますか。そんなに? 」
「あぁそうだな、横顔なんて特にな」
スケッチブックのデッサンを律矢さんの指が辿っていく。小さな子供の時というが大した腕前だ。女性の輪郭をなぞるように、ゆっくりと指先が動いていくと、少しずつその輪郭が滲んでいくのを、俺はただじっと見つめていた。
「だが……俺は手の届かなかった彼女より、今この腕の中にいる夕凪が好きだ」
「……好き? 俺のことを」
「あぁ誰にも渡したくないから、ここに閉じ込めている」
「……俺の意志は」
そう言いかけて途端にむなしくなった。そうだった。俺にはもう帰るところがないのだ。
婚約者とも破談になり、両親はいとも簡単にお金につられて俺を手放してしまった。誰かもう一人、もう一人だけは俺のことを大切に想ってくれていた人がいたのかもしれないが思い出せない。もうどうでもいい……
「夕凪、さぁ絵を描いてごらん。そうだな、手始めに庭の花でもどうだ? 」
「庭の花……」
明け方、儚げに揺れていた白い鷺草のことを思い出した。
「あの……庭へ行ってもよいのですか」
「もちろんいいよ」
庭先に降りて、今朝方見かけたあの白鷺草を探した。
「あっ……」
白鷺は無残にも風になぎ倒され大地から切り離され、水分を失いしおれていた。何かとても残酷なものを見てしまった気分だ。
この白鷺草はまるで俺のようじゃないか……今までの生活から突然切り離され全てを奪われ失くしてしまった俺のようだ。
呆然としていると、律矢さんがまたしても心配そうに声を掛けてくる。律矢さんは本当は優しい人だ。そして愛情に飢えている人なのかもしれない。最近そう思うようになってきた。
「夕凪おいで、どれ手本に何か描いてやるよ、その鷺草が気になるのか」
「いえ……別に」
「なるほど……純白で細かな切れ込みの入った花姿が、まるで白鷺が飛んでいるかのように見えるな。だがこの白鷺はもう空を飛べない」
「そうですね。萎れてしまっていますから」
「だが絵の世界なら、いつまでも咲いていられるよ」
「あっ……」
驚いた。律矢さんも同じようなことを考えていたなんて。
そのまま律矢さんの指先が滑らかに動き出し、真っ白な紙に明け方健気に咲いていた鷺草が蘇った。まるで今にも紙から羽ばたいていきそうなほど現実的で繊細だった。
「どうだ? 」
「すごい……」
その絵を見た途端、心を奪われそうになった。
俺の躰を無理やり奪った相手なのに……こんなの変だろう。そう思うのに。
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