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隔てられて 9
「やっと笑ったな」
「えっ」
「嬉しそうな顔、やっとしてくれた」
そう言いながら律矢さんが俺のうなじに顔を埋めてきた。それはいつになく優しく唇が触れるか触れないかの淡い口づけだった。
律矢さんの描いた鷺草の絵は、まるで飛び立つ鷺そのもののような躍動感があった。その絵に心を鷲掴みされ、ときめきを感じてしまった自分に驚いた。
どうやら自然と頬が緩んでしまったのだろう。その顔を見られていたかと思うと、ひどく恥ずかしい。
「見ないでください。こんな顔……」
「なぜ? 夕凪は笑った方がずっと可愛いんだな、やっぱり」
「……」
気を許したくない。俺の躰を無理矢理奪って、ここに閉じ込めている相手なのに……それなのに。
「律矢さんは本当に絵がお上手ですね」
「そうか。それは嬉しいな。夕凪にそう言ってもらえるなんて」
そういえば俺は律矢さんのことは大鷹屋の若旦那ということ以外、何も知らない。いや知ろうとしなかったのだ。
「本格的に絵を習ったのですか。そういえば律矢さんは普段ここで何をしているのですか」
「嬉しいものだな。夕凪が俺に関心を持ってくれて。俺の仕事か」
そう律矢さんが言いかけた時、くしゃみが出てしまった。
「くしゅんっ」
「寒いのか」
そういえば喉が少し痛む。明け方、薄着で庭にいたせいか、少し躰が熱っぽいことに気が付いた。それにここ数日、昼夜問わずに律矢さんに抱かれ続けて、体力の限界ということもあるのだろう。
「いえ……でも少し寒いかも」
律矢さんは心配そうに俺の額に手をあてた。律矢さんがこんな優しい仕草をするなんて、さっきから動揺してしまう。
「少し熱いな」
「この位大丈夫です」
「ここで待っていろ」
律矢さんは俺を残して部屋から出て行ってしまった。
「ふぅ……」
家具が最小限しか置かれていない空っぽの部屋を見つめると、ため息が出た。
律矢さんがいないとほっとする。
だが律矢さんがいないと少し寂しい。
俺は一体どうなってしまったのか。
暫くして律矢さんが廊下を歩く音が聞こえて来た。その足音にどこかほっとする自分がいた。
「待たせたな、夕凪」
ふわりー
背後で、天女が舞う様なやさしい音がした。その音につられて振り返ると薄い浴衣姿の俺の背に、律矢さんが着物をもう一枚羽織らせてくれた。それは朝方羽織らせてもらった紺色の中羽織(ちゅうばおり)とは違った、目にも鮮やかな京友禅だった。
「これは?」
「※辻が花の訪問着だ」
羽織らしてもらったものは、上質な訪問着だった。
月明かりのように優しい黄色に、鳩羽色(はとばいろ)のように少しくすみのある上品な紫色の地色。そしてそれぞれに淡い色合いで染め上げられた辻が花が非常に美しい逸品だ。白や薄紫の小さな花が、着物の中を幻想的に舞い散っている。まるで月明かりに照らされた花のようで、今さっき天から舞い降りてきたかのような圧倒的な世界観だ。
「素敵だ」
率直な感想が自然と口から出ていた。こんなに美しく一つ一つの花が、まるで踊るように描かれた躍動感ある京友禅を、俺は見たことがない。
「夕凪にやるよ、これは君によく似合う」
「えっ」
律矢さんが嬉しそうに愛おしそうに俺を見つめてくるので、いたたまれない気持ちになってしまう。俺は女じゃないのに……着物をもらって喜ぶなんて恥ずかしい。
「あっ」
その時、着物の裾に描かれた白い花が鷺草だということに気が付いた。そしてその鷺草は、先ほど律矢さんがスケッチブックに描いたものとそっくりだった。
「この着物って、まさか」
※辻が花
辻ヶ花(つじがはな)とは、室町時代から桃山時代にかけて現れた絞り染めの技法。
最盛期に当たる桃山~江戸時代初期にかけては、複雑な縫い締め絞り・竹皮絞りなどの高度な技法が使用され、 多色染め分けによる高度な染物を創り出し、摺箔等の技法と共に安土桃山時代の豪華絢爛たる文化を演出した。
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