隔てられて 10

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隔てられて 10

 俺の肩に掛けられた訪問着は、圧巻の美しさを誇っていた。この鷺草の絵柄の躍動感……信じられない程の腕前だ。 「もしかして、律矢さんが、この着物を作ったのですか」 「あぁそうだよ。気に入ってくれたか」 「……凄いです」 「へぇ君のそんな顔が見られるなんてな」  律矢さんが俺の前にしゃがみ込んで、くいっと顎を掴んだ。いつものように口づけされると思いそっと目を閉じたが、そのまま何も起こらなかった。不思議に思ってそっと目を開けると、律矢さんは快活に笑っていた。 「おいおいっ、いくら俺でも熱がある君に手を出したりはしないよ」 「なっ……紛らわしいことを、しないでください」  自分のとった行動が恥ずかしくて顔から火が出るようだ。 「さぁ今日はもう寝ろよ。熱があるようだぞ。それに……俺は欲張りなんだ」 「欲張り? 」 「夕凪の躰は手に入れたから、次は心が欲しくなった。なぁ絵を教えてやろうか。興味があるのだろう」 「どうして」 「夕凪の気を引くためさ。さっきの顔見れば分かるよ。本当は絵師になりたかったのか」  はっとした。産まれた時から跡取り息子として育てられた。そのことに何の疑問も持っていなかったはずのなのに。  俺の心の底に学生時代にうっすらと芽生えた絵画の世界への憧れは、自分でも気が付かないほどの微かな希望だったのに……律矢さんはなんでこうも、俺の心の内に簡単に入って来るのか。もうこれ以上駄目だ、ここまでだ。 「熱がずいぶん上がって来たぞ。夕凪は本当にひよっこだな」  律矢さんが布団を敷いてくれて、そこに寝るように言われたので大人しく従った。次第に頭痛が酷くなって来たので一度横になると、もう起きられなかった。 「んっ……」  次に目が覚めたのは真夜中だった。しんと静まる部屋なのに近くに暖かい寝息が聞こえて不思議に思った。目を凝らしてみると俺の手を握ったまま律矢さんがうたた寝をしていた。額には濡れた布が、枕元には洗面器が置いてあった。  まさか寝ずに看病してくれたのか………この人が。信じられない。  あんなに乱暴だったのに、こんなことされたら俺は律矢さんに惹かれてしまう。  戸惑っている自分の心。どうしたらいいのか分からない。  握られた手が温かい。この手が描いた鷺草のように俺の心が律矢さんの方へ飛び立っていきそうで怖い。  駄目だ、駄目だ。この人は俺を監禁し、無理矢理躰を奪った人だ。  そう何度も心に言い聞かせるのに、一度芽生えてしまった淡い想いというものは、なかなか消えてくれない。 ****  夕凪の行方が分からなくなって一か月が過ぎた。  一宮屋の大旦那を捉まえて尋ねても「夕凪は若旦那としての修行に出したので心配ない」との一言で片付けられてしまって、埒が明かない。  夕凪を抱いたのは夢幻か。何も見えない闇夜を手探りで歩いているような毎日だった。  祇園で今日も酒をひっかけて、気を紛らわす位しか今の私には出来ない。そんな情けない自分が、とことん嫌になってくる。 「おい信二郎、お前最近どうした?ずいぶん荒れているな。もういい加減そんな女のことは忘れろよ、お前を置いて消えたってことは、もうお前と別れたいんだぜ。きっと……」 「だが私が忘れられないから、困ってる」  いつものように何度か抱いて別れを繰り返していた女とは、夕凪は違ったんだ。老舗の一人息子としての何不自由なく、裕福な環境で育ってきたはずなのに、なぜかどこか儚げで庇護欲を掻き立てられた。  男なんて知らなかっただろうに……まるで導かれるように何度か開いてくれたしなやかな躰が忘れられない。  まさか今更、男に抱かれたことが嫌になったのだろうか。いや、そんなはずはない。あの日の朝。微笑みあって白米を頬ばった夕凪の姿が忘れられない。幸せそうな顔をしていたのだ。  夕凪……君も私と同じ気持ちだと思っていた。なのに君は私に会えなくて大丈夫なのか。私にもう抱かれたいと思わないのか。それでいいのか。  自問自答していると草履屋の若がしたり顔で話しかけて来た。 「信二郎、なぁそういえば大きな展示会が明日あるが、お前も行かないか」 「展示会? どこで?」 「それがな、あの大鷹屋の広大な屋敷で行われるんだぞ。例の幻の作家の作品もどうやら展示されるらしい」 「あの『薫』という作家が出品するのか」 「あぁ」 「行くっ」  大鷹屋の中に入ることが出来る。これは絶好の機会だ。それにずっと憧れていた『薫』の作品が見られるなんて。  私は即答していた。  道が開けるかもしれないという一縷の望みを持って。 あとがき **** こんにちは。志生帆海です。 いつも夕凪の空を読んでくださってありがとうございます。 時代に人に翻弄されていく夕凪……続きは来年です。年始はゆったり更新になります。 いつも読んでくださってありがとうございます。こちらは細々とした連載ですが、いつもスターを贈ってくださりありがとうございます。大正ロマン楽しんでいただければ嬉しいです。 よいお年をお迎えくださいませ♪
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