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さざ波 2
弱い風が吹き抜けると、静かな湖面には皺のような小さな波がいくつも広がっていった。水面は頼りなくゆらゆらと不安げに揺れている。
まるで不協和音のようだ。
そんな光景をじっと眺めていると、俺はこの先どうしたらいいのかわからない不安で、胸が押しつぶされそうになっていく。
あれから俺は信二郎という男と大鷹屋を抜け出して、この湖に面した旅館に泊まることになってしまった。有無を言わさぬ勢いで連れ込まれたここは信二郎の定宿なのか、随分と慣れた様子だった。
間もなく日が暮れる。日が暮れるということが何を意味しているのか。その意味を考えると憂鬱な気分になってしまう。
律矢さんはいつも日が暮れると俺を抱いた。やはり信二郎もそれを望んでいるのだろうか。未だ思い出せない信二郎との記憶。律矢さんに抱かれた躰で、また違う男に抱かれていく。それは男娼にでもなったようで、ひどく汚いもののように感じてしまう。
果たして本当にこれしかないのか。いつからだろう、俺がこんな生き方しか出来なくなってしまったのは……こんな自分の生き方が嫌で仕方がない。
一宮屋の若旦那として過ごしていた晴れ晴れとした日々がひたすらに懐かしい。どうして両親は俺を捨てたのか、どうしてそこが大鷹屋だったのか。何か意味がありそうで知りたいが、知るのが怖い気もする。
それにしても分からないことが多すぎて頭が痛くなる。
本当にもうこのまま何処かへ消えてしまいたい。考えれば考えるほど頭痛がしてきてこめかみを押さえていると、そっと背後から羽織を肩にかけられた。
(律矢さん…?)
そう思って振り返ると、信二郎が困った顔をして立っていた。
「夕凪、どうした? もう冷えるぞ。夕食は部屋食だ。戻ろう」
「あっ……はい」
肩を組まれて、思わずびくっと躰を震わせてしまった。
「ふっ余所余所しいな。私とお前の仲なのに」
「そのことですが……俺は何も覚えていないんです。だから……」
「だから?」
そう問い詰める信二郎の目が切なく熱く、それ以上の言葉を告げることが出来なかった。
だから……
俺にもう触れないで欲しい。
あなたには抱かれたくない。
そうは言えなかった。
「夕凪、私からもう逃げるなよ」
「あっ……」
まるで頭の中を見透かされたようで困惑してしまう。信二郎に手をきゅっと掴まれて、ぐいっと引っ張られて宿に戻る。
この手を振り払って、律矢さんのもとへ戻るべきか。
それとも誰も知らない所まで逃げるべきか。
信二郎の元にいるべきか。
何より君のことを一体俺はどう思って居たのか……それが思い出せないのがもどかしい。
「忘れてしまったのなら思いだせばいい。この躰が覚えているだろう!」
和室に綺麗に整えられた布団の上に勢いよく押し倒され、そう言い放つ信二郎に力尽くで組み敷かれたのは、夕食の後のことだった。
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