さざ波 5

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さざ波 5

 数時間前だ。夕顔の間の屏風の奥に愛しい夕凪を隠すように忍ばせて来たのは。  女装姿を他人に見られたくなくて怯えている夕凪に、ちょっとした罪を与えてやる。そんな揶揄うような軽い気持ちからだった。 「夕凪っ、夕凪いるか」 「あっ若旦那、いかがされました? 」 「五月蠅い! 夕顔の間を暫く人払いしろっ」 「はっはい、かしこまりました」  夕顔の間の襖を、力任せに勢いよく開いた。  父に言われたこと、夕凪が異母弟だなんて信じらない。受け入れらない。早くその美しく儚い凛とした姿を見せて、男なのに女以上に美しい躰を抱かせてくれ。今から夕凪の存在を確かめるために、この部屋で夕凪を押し倒し抱き潰してやる。  そう思っていたのに、襖の先に広がっていた光景に唖然とした。 「なっなんだ! これはっ」  俺が着せたはずの薫の訪問着が大河のように畳の上に広がっていた。解かれた帯がまるでうねるように何処までも果てしなく続いているような禍々しい光景にちっと舌打ちをしてしまった。状況をすぐに理解した。  寝取られたのだ。誰か他の奴に。 「くそっ! 誰だ、俺の夕凪を攫ったのは」  こんなことになるなら、あんな風にこの部屋に一人残さず、ずっと俺の手元に置いておいたのに。すぐに近くにいた下働きをひっ掴まえ、今日夕顔の間を訪れた訪問客のことを聞きだすと、相手はすぐに分かった。  あの信二郎という男が、この部屋にやってきたのだ。  そうか、とうとうあいつが夕凪を取り戻しに来たんだな。  あの祇園で暴漢に襲われている夕凪を助けてやった時、しきりに信二郎と呼んでいたから……二人には親密な関係があると疑っていた。  不思議なことに俺が抱いて囲っている間、夕凪は一度も信二郎の名前を口に出さなかった。まるでそんな人物ははじめから存在していないかのように……  だからすっかり油断していたよ。  俺の腕の中に確かに捕まえたはずの夕凪だったのに、こんな風に逃げられるとはな。  これが潮時なのか。  俺さえ黙っていれば、夕凪は異母兄に抱かれたことを知らずに、あいつと幸せに暮らして行けるのか。夕凪の身を考えると、いつになく俺らしくない弱気な考えが浮かんでくる。俺と夕凪が躰を重ねるということは、禁忌を破ることなんだ。  だが背徳行為であることを重々頭では理解しているのに、心も躰もひたすらに夕凪を求めてしまう。  父が俺に言った通り、俺は本当に地獄に堕ちてしまったのかもしれない。そう思うと急に渇いた笑いが込み上げてきた。 「ははっ……」  笑い声は言葉として発せられると同時に、むなしさにすり替わって行く。  夕凪、今どこにいる?  俺のことを本当に忘れたいか。  信二郎と暮らせればそれでいいのか。  それなら俺は身を引くしかない。  何一つ諦められないくせに、夕凪の気持ちを尊重しようとする気持ちが芽生えていることに 動揺してしまった。  あぁそうか、そういうことか。  京都一の老舗呉服屋、大店の若旦那として何不自由ない暮らし、女にも事欠いたことなんてない俺が見つけた本当に欲しいもの。  それは夕凪の心だったのか。  夕焼けで赤く燃えるように染まる山間を、夕凪を想いながら見つめる眼は赤く染まっていた。視界が霞み、その先に凛とした夕凪の姿が浮かび上がってみる。  手を伸ばせば届きそうなのに届かない……もどかしい想いと存在。  そうか……これが『一途な恋』というものなのか。
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