さざ波 6

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さざ波 6

  『夕凪……何処だ? 何処にいる?  早くここに帰ってこい』  律矢さん?  遠くから呼ばれたような気がして、はっと空を見上げた。空はどこまでも高く澄んでいて、その気高き空に俺は押しつぶされそうだ。俺は今、律矢さんと過ごした家には戻らず、信二郎と共に湖の畔の旅館に何日も泊まっている。 「もう帰らないと……」  でもどこへ行けばいいのだろう。独り言のつもりが自然と漏れた言葉に、信二郎が心底嫌そうな顔をし背後から俺をぎゅっと力強く抱きしめて来た。 「夕凪どこへ帰るって? お前が帰る家はもうないだろう」 「信二郎は何故そんなことを? 」 「一宮屋のことは聞いた」 「えっ誰から? 誰がそう言っていたのだ? 」 「実はお前の所の番頭からすべて聞いてしまったんだよ」 「番頭って、あの夜逃げした番頭と会ったのか。それはいつだ? 」 「あっ……いや」 「一体番頭から何を聞いたんだ? 俺の何を知った? 」  嫌な予感がする。番頭の話は何だったのか。信二郎は一体何を知ったのだ。俺が知らないことを知っているのではないかという不安が過って行く。  何故、番頭が消えてすぐに俺は一宮屋を追い出されるように、父によって大鷹屋に預けられたのだろうか。あそこで俺が体験したことはお前には知られたくない。あんな落ちぶれたみすぼらしい姿で過ごした苦痛だけの日々はもう記憶から消してしまいたい。  それにあの日……とうとう大旦那へ躰を女のように差し出すことになってしまい、その前に風呂場で律矢さんに抱かれてしまった。その衝撃で信二郎のことを無意識に記憶の底に沈めていたこと……己の身に起きた数々の禍々しいことを、思い出して身震いした。 「夕凪、お前はずっと大鷹屋にいたんだな」 「あっ……」 「無事だったのか。ここ」  信二郎の長い指がすーっと下半身を撫でていく。そのまま着物の裾から手を差し入れられ、薄い茂みを掻き分け、奥深くをぐいっと指で弄られる。 「んあっ! やめろ! もう触れるな」  窓越しには行き届いた風情のある日本庭園があり、遠くには庭師の姿がちらちらと見えたので羞恥に震えた。 「やめてくれ。まだ明るいし人もいるのにっ」 「じゃあ正直に話せ。ここを私以外の誰かに許したのか」 「……言いたくない」  あぁ駄目だ。こんな答え方じゃ…この答えがすべてを物語ってしまうじゃないか。  信二郎には分かってしまっただろうか。俺が信二郎以外に躰を許したこと、気が付いただろうか。信二郎の表情が次第に曇って行く。 「夕凪、まさか」 「なっ何? 」 「まさか大鷹屋の大旦那に抱かれたんじゃないよな。それはないよな」 「何てこというんだ! 抱かれていないっ、抱かれるはずないっ! 信二郎……お前はなんてことを言うんだ。俺は父の借金のカタに下働きの下男として行っただけだ」 「本当か。それならば良かった……道ならぬ道へと突き進むことは許されないから」 「道ならぬ道とは? 」  気まずそうな信二郎の顔をじっと見つめた。信二郎の言葉に含みがあるような気がしたが、怖くてそれ以上のことは問いただせなかった。  それに律矢さんのことを信二郎には話せない。律矢さんに躰を最初は無理矢理奪われたにせよ、俺も最後には同意して抱かれて感じてしまったのだから。  昨日今日と律矢さんに抱かれた躰で、信二郎に抱かれ続けている。今宵もまた、このまま抱かれるのだろうか。そして律矢さんといつかまた会うことがあったら、今度は信二郎に抱かれた躰で、律矢さんに抱かれるのか。  違う!俺はそんなことをするためにこの世に生まれて来たんじゃない。だが物思いにふけっていると、さらに信二郎の手が妖しく俺の下半身をまさぐって来たので、身を捩り必死に抵抗を試みた。 「やめろっ離せっ」 「こんなに濡らしているのに何故だ。まさか他に思う奴がいるのか」 「違う! 分からない。知らない。もう何も考えられない」  こんな風に誰かに見せつけるように抱かれるのは嫌なのに、信二郎をこれ以上責められない。信二郎と律矢さん二人に心を揺らがす俺が一番淫らな人間だからだ。  いっそ二人がいない世界に行ってしまいたい。そうすれば、もうこんな風に思い煩うこともないのでは。そう思うのに再び信二郎の愛撫に声を漏らし、高まって行く己の躰が恨めしい。  硝子窓にぼんやりと映っている己の欲情した顔、着崩れていく着物姿、目を背けたくてもそれを信二郎が許してくれなかった。  心に不安のさざ波が生まれた。    さざ波は、どこまでもどこまでも果てしなく遠くへと広がっていく。  まるでこの世を埋め尽くすように、不安で埋め尽くすように。 「さざ波」了
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