ためらい 1

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ためらい 1

「やっぱり明日の夕刻には、ここを旅立とう」  夜になり再び俺の躰を存分に抱いた後に、信二郎は独り言のように枕元で呟いた。流されるがままに躰を許し心身ともに疲れ果てた俺の頭に、ぼんやりとそれは響いた。 「信二郎……一体何処へ行くつもりだ?」 「あぁ聞いてたのか。私達のことを誰も知らない所だ」 「一体、何故?」 「お前を盗むように連れて来てしまったから、どうやら京の町は大騒ぎのようだ。大鷹屋の大旦那と若旦那も血眼で探しているようだ」 「そんな……」  こんな形で京の町を出ていくなんて嫌だ。俺にとって京の町は生まれ育った場所で、若旦那として誇りをもって一時は立ち振る舞っていた大切な場所だ。なのにこんな風に逃げるように逃避行するなんて。そんなの俺は望んでいなかった。  一体俺の歯車はどこで、こうも大きくずれてしまったのだろう。  だが信二郎へ何も言い返すことは出来なかった。俺を一心に求めてくれる信二郎には、申し訳ない気持ちで一杯だったが、どうやったら逃げ隠れせずにいられるのだろうか。そのことで頭が一杯だ。前のようにはもう戻れないのか。 **** 「夕凪、君の荷物は特にないが、私が戻るまで心の準備をしておいてくれ。今から一旦家に戻り身の回りのものを整理してくるから」 「信二郎……だが」 「夕凪心配するな。私はお前が好きな京友禅の絵師を辞めるわけじゃない。どこか違う場所で、邪魔されずに二人で暮らそう。なっ」  そう言って俺を旅館に残したまま、信二郎は出かけて行ってしまった。  一体どうしたらいいのだ。  旅館の縁側に座って信二郎の帰りをただじっと待つしか出来ないなんて。なんと無力なんだ。情けない。悲しみに押し潰されそうな胸を押さえながら縁柱にもたれていると、ふいに砂利を踏みしめる音がした。 「寝ているのか」  突然頭上から声を掛けられたので、びくっと目を開けると、昼間の太陽がまぶしく目の前に立っている人物の顔がよく見えなかった。 「誰だ?」 「あぁこの旅館の庭師をしているもんだが……あんた大丈夫?」 「……何?」  庭師と名乗る男の顔を見つめ直したが、初対面のようで何の面識もない相手だった。 「俺さ、あんたのことずっと見てたんだよ」 「何が言いたい?」 「あんたが、この旅館に三日前から男と二人で泊まっていて、真昼間から男に抱かれる淫乱だってことさ」  突然言われたことに血の気が引くほど驚いた。恐らく真っ青になっていただろう。 「なっ」  その場にいられない居たたまれない気持ちが込み上げて来て、無視して奥へ引っ込もうと思ったが、その庭師に腕を掴まれて阻止されてしまった。 「離せっ! 何をする? 俺は客だ」  庭師の手についた泥が真新しい着物に付くような気がして、咄嗟に振り払ってしまった。 「あぁ大丈夫だよ。あんたが男と寝ようが俺は別に偏見なんてないからな。なぁ何か事情があって男娼のような真似してんだろ? あんたの顔がずっと暗くて気になってさ」 「……だっ…男娼だと! 失礼な」 「はっ気高いこった。にっちもさっちもいかないような困った顔で、さっきからずっと悩んでいるくせに」 「うっ……君には関係ないことだ」 「相当行き詰まっているんだろ」 「……」 「いいこと教えてやるよ。なぁあんたは京都から出たことがあるのか。どこかへ逃げるあてはあるのか?」 「いや……ない」  悔しいがその通りだ。あてなんてない。だから何一つ答えられなかった。 「やっぱりな。もしもどうしても行く当てがなくなったら、ここを頼るといい。お前みたいな奴を一時的に匿ってくれる場所だ」 「ここは?」 「俺がこの旅館に来る前に庭師をしていた寺の住所だ。この寺は別名・縁切寺(えんきりでら)とも言われているから、あんたみたいな人間には必要かもしれないだろ」  手渡された紙には、遠く鎌倉の寺の住所が記載されていた。 「はっ……馬鹿な。なんで俺が京を離れ、こんな見ず知らずの場所へ行くというのだ」  鎌倉といえば海あり山ありの風光明媚な土地で、しかも東京からほど遠くないということで、別荘地・保養地として人気を博しているようだが……行ったこともない、縁もゆかりもない場所だ。しかも縁切り寺だなんて、いい加減にして欲しい。 「まぁそう怒るなって。使うか使わないかはあんた次第さ。おっと仕事の時間だ。じゃあ無事を祈るぜ」  名も知らぬ庭師から渡された一枚の紙きれ。すぐに捨てようと思ったが、捨て切れなかった。その紙切れは、しっかりともう一度自分の足で生きたい。逃げるようなことをしたくないという前向きな気持ちを、もう一度だけ俺に呼び戻してくれた。  まだだ。まだ俺にはすべきことがある。確かめたいことがある。とにかく信二郎が戻ってくる前にここを出て一宮屋に戻ろう。いくら俺が大鷹屋を逃げ出したからといって、実の両親だったら最後にはきっと許してくれるはずだ。借金のことは、俺が死ぬまで働いて返すから、悲しませることになるが、正直に今の状況を話してどうにか両親に許しをもらおう。なんとか話を聞いてもらおう。  もうこんな風に、ただ流されていくのは嫌なんだ。  信二郎と律矢さんのことも含め、自分のためにも、俺自身がこの流れを堰き止めないといけない。
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