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ためらい 2
わずかな金を握りしめ、そっと信二郎と泊まっていて宿を出た。そうせずにはいられなかった。
一宮屋にいる両親の元へ戻ろう。どうしても、もう一度父と母に会いたい。
振り返ると宿の目前に広がる湖は暗黒の色に澱んでいて、俺をその奥底へ深く誘っているようで鳥肌が立った。
「……不吉だ」
****
久しぶりの京の町は少しも変わらず賑やかで華やいでいた。少し前までは俺もこの街で生き生きと若旦那として生活していたのに、たった数か月でこの身の変わりよう。情けなくもなってくる。
逸る足で生まれ育った家の前まで戻って来た。だが……いざ一宮屋を目の前にすると、急に足取りが重くなってしまった。父も母も今の俺の姿を見てどう思うだろうか。大鷹屋で修行しているはずの俺が急に戻っても喜んでくれるはずがない。だが俺はもう行く場所がない。
「どうしたらいいのか分からない」
時が止まってしまったようだ。喧噪も遠くに聴こえ、まるで世界には俺しかいないような、そんな脆い場所に立ち尽くしているようだ。
その時背後からポンと肩を叩かれた。驚いて振り返ると母が立っていた。あぁ心配をかけたのだな……母のその少しやつれた面差しに胸が痛む。
「夕凪……」
母は俺をそっと優しく抱きしめて涙ぐんだ。いい歳して物陰とはいえ、道中で母に抱きしめられるなんて恥ずかしくもあったが、それよりも嬉しかった。幼い頃から可愛がってもらっていた、母の温もりを久しぶりに感じた。
「母さま……」
「あぁ無事だったのですね。あなたが突然行方不明になったと聞いて心配していたわ」
「うっ……申し訳ありません」
「とにかく家にお入りなさい。父さまには、私から話すから、まずはあなたの部屋で待っていて」
俺にとっては、いつだって優しい母だった。家では父が絶対だったので母は父の言うことに逆らえないが、幼い頃、俺が怒られたりすると、そっと後から部屋に来てくれて、抱きしめたり飴玉をくれたりした。そんな日々を思い出す。
母に促され俺は勝手口から一宮屋に入り、そっと二階へ上がった。久しぶりの自分の部屋に戻って来た。何もかもあの日出て行ったままだった。
「はぁ……疲れた」
ベッドに座り深呼吸すると、ここ数日のまるで逃避行のような日々の疲れがどっと出て来たようで、躰が一気に怠くなったので、そのまま仰向けにベッドに寝転んだ。
「あぁ……」
よく見慣れた天井が視界に入る。
そうだ、あの日も俺はこの天井を見上げていた。このベッドで初めて信二郎に抱かれ、あの筆で……思い出すのも恥ずかしい行為の連続に、俺はあっという間に溺れるように信二郎に身を委ねてしまったのだ。
信二郎……憧れていた絵師としての才能豊かな信二郎。あんな風に求められるがままに躰を許したのは、自分ではそれまで意識していなかったが、君のことがとても好きだったからなんだ。
律矢さんに襲われた時に、記憶をなくすほど君とのことを大切にしたいと思ったのも、真実だ。なのにどうして出逢ってしまったのか……律矢さん、あなたと。磁石のように吸い付いた躰と躰の高揚が忘れられない。
こんなの変だ。律矢さんは俺を奪うように扱った人なのに。
信二郎の記憶を取り戻した時に、律矢さんとのことを忘れてしまえれば、こんな風に苦しまなくて済んだのに。何故どうして俺は律矢さんのことが忘れられないのだろう。信二郎に再び抱かれ上書きしてもらっても、あなたの熱が躰に籠っているのを感じてしまう。
俺は男なのに二人の男に躰を許し、心も許し、その二人を天秤にかけるような真似をしているのか。どうしても答えが見つからない。出口のないトンネルをただひたすらに彷徨うような最悪な気分だ。
「うっ……」
溢れ出そうになった涙をせき止めたくて、腕で目を覆った。
視界が遮られれば、部屋は暗黒の世界へと一転した。
もう何も見たくない。考えたくないよ。
若旦那をしていた頃の……元の世界に戻りたい。
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