行先のない旅 4

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行先のない旅 4

 見知らぬ男の声にびくっと身を固くした。だが無残な姿のまま動くことも出来ずに床に倒れている俺には逃げも隠れも出来ない。  どうか……どうか……この男達が変な気を起こさないように、良心と常識を持っている人でありますようにと、ただそれだけを心の中で祈っていた。 「あっ兄上大変です! こんな所に人が……酷い傷のようです。それに……」 「これはっ……君、しっかりしろ!大丈夫か。今、何か着る物を。流水(りゅうすい)、その袈裟を脱いでかけてやれ」 「はいっ」  二人の男性の心底心配する声にほっと安堵した。暗がりでよく分からないが、袈裟というのだから、もしや僧侶なのだろうか。俺にこれ以上の危害を加えずに助けてくれるのだろうか。それならばもうあんな酷い扱いを受けなくて済むのか。恐怖に震えなくてもいいのか。  それでも近づいて来る見知らぬ男性の気配に、さっきまで軍服を着た男たちにいいように無理矢理された仕打ちを思い出し、歯がカタカタと震え出してきた。 「寒いのか、痛いのか、なんと惨いことに……可哀そうに……さぁこれを」 「つっ」  次の瞬間、俺の躰を隠すようにふわりと布がかけられた。清潔で滑らかな生地を肌で感じ、これ以上の不幸が訪れないということをやっと理解できた。すると途端にギリギリのところで保っていた緊張の糸が切れ、俺の意識が遠のいていくのを感じた。  眠ってはいけない。意識をなくすわけには……そう思うのに、躰が急降下するように脱力していってしまった。 「おいっ! しっかりしろ! 」 「兄上、どうやら彼は気絶してしまったようです」 「あぁ本当にむごいことを…我が寺で介抱してやろう」 「そうですね、ここの所この辺りで女が襲われる事件が増えていて。今宵もまさかと思ったら男性とはどういうことなんでしょうか。まさかこの青年も女のように? 」 「お前は、まだまだ甘いな。男でも性欲の対象になるのだよ。ましてこんなに綺麗な人ならば……さぁここに長居は無用だ、行くぞ」 「はいっ」 ****  またあの夢を見た。  俺の手には牡丹の花が一輪。握りしめれば、血のように真っ赤な花弁が庭先へ散って行った。  牢獄のような冷たい部屋で、遥か頭上にある小さき窓から射し込んでくる光を涙を堪えて見つめていた。躰からは蹂躙された後の、穢れた雄の臭いが立ち込めていた。  もうこんな夢を俺は見たくない!  今の俺は……夢の中の君たちと同じなんだ。辛い…… 「あっ」  清潔な布団の上ではっと目が覚めた。一体ここは何処だ? 八畳ほどの広くすっきりとした和室。畳も障子も襖もどれも奥ゆかしく品がある。焚かれた白檀の香が、興奮しきった俺の気持ちを落ち着かせてくれているようだだった。 「おっ目覚めたのか」  枕元で男性の声がするので目を凝らすと、藍色の作務衣を着た男性が胡坐をかいて座っていた。どこか信二郎にも似た雰囲気の男性で驚いてしまった。全く見覚えなない人物に、自分が寝かされている場所にも心当たりがない。何もかも知らないことばかりで怖くなってきてしまう。 「あっあなたは? ここは……どこですか」 「あぁ心配するな。もう大丈夫だからな。ここは寺だよ。そして俺はこの寺の僧侶で、流水と言うものだ」 「ここは、お寺?……どこにあるお寺ですか」 「ん? 君は一体どこから来たんだ? ここは鎌倉だぞ」 「鎌倉……?」  いつの間にそんなに汽車に乗ったのだろうか。  俺は自分がどこで降ろされたのかすら分かっていなかった。  それにしても鎌倉の寺って……まさか、まさか…… ※白檀…お寺などにおける瞑想時に使われる香りとして有名であり、その鎮静作用によって心を静める役割が強いと言われています。高ぶった気持ちを抑え、冷静になりたい時に有効です。
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