月影寺にて 4

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月影寺にて 4

「……ゆう……なぎ?」  思わず復唱してしまった。  だって……それは……それは俺の名前だ。今の話のその赤子というのは……まさか。  いやまだ早い。ぐっと逸る気持ちを我慢し、その先を聞くことにした。  母かもしれない。その女性についてもっと知りたい。聞かせて欲しい。 「それでその女性は、どうなったのですか」 「あぁ、それからも何度か話す機会があったよ」 **** 「ねぇ夕さんは一体何処からやって来たの? 」 「坊ちゃま……何故そんなことを聞くのです? 」 「それは……夕凪が大きくなったら知りたがるかもしれないと思って」  まずいことを聞いてしまったと、すぐに後悔した。だってこれじゃ、まるで夕凪の母親がもうすぐこの世から消えてしまうから、夕凪が将来自分の出生について知りたがった時のために、いろいろ聞いておかなくてはいけないと思っているみたいだ。 「確かにそうですね。坊ちゃんにだけは話しておきたいと思います。いつか息子が大きくなったら教えてあげてください。私のことを……」 「うん、必ずそうする。そう約束するよ」 「ありがとうございます。私なんかのことを、こうやってこのお寺に匿ってくださって。私はここに来るまでは、京都の宇治という所で友禅の絵付けをしていました。お分かりになります? 着物の柄を描いていたのですよ」 「へぇすごいな。そんな素晴らしい仕事を、女子の身で」 「私は幼い頃から絵を描くのが好きで、それが高じて。でもそれが私の生涯に災いを招くとは思っていませんでした」 「そうなのか……では、この子の父親は一体……」 女性は悲し気に目を伏せた。 「……それは今は坊ちゃまに話せる内容ではないの。ごめんなさい。でもこの子、夕凪は私が腹を痛めて産んだ私の大切な息子なの。私はね、お腹に宿った時に誓ったの。この子がいればどんな屈辱にも耐え抜いて生きていけると」 「そうなのか……」  やはり何か深い事情があるのだ。こんなところまで逃げてくるほどの大事が…… 「それなのに私は今、この子を一人この世界に生み落とすだけで去って行かねばならない。それが悔しくて悲しくて……もう、すべてはこうなる運命だったとあきらめています。でもせめてこの子にだけは、坊ちゃまが名付けてくれた夕凪という名前のように災いに巻き込まれず、万が一巻き込まれるようなことがあっても自分を見失わないで生き抜いて欲しい。私のように中途半端で人生を終わらせぬように……凪いだ穏やかな心で生涯を……お願いです。この子を見守ってあげてくだ……さい」 「ゲホッゲホッ」  一気に話終わると、母親は息苦しそうに胸を押さえ、咳き込んだ。 「しっかりして! 今誰か大人を呼んできます」  そのまま夕さんは重体になってしまい……もうゆっくり話すことは叶わなかった。  胸に抱いた夕凪は、まだ本当に小さくか弱く……何も分からない乳飲み子で、母が今この世から消え行くことも知らずに無邪気に笑っていた。それから、その楓のような小さな手を一生懸命大きく空に向けて広げて泣いた。  それはまるで今この世から去って行く母を引き止めようとしているようにも見え、それが皆の涙を誘った。 「ど……うか……私に……筆を……持たせて……」  息も絶え絶えに夕さんが手を彷徨わせる。  私の母上が墨をしたためた筆を握らせると、夕さんは朦朧とした意識の中で、真っ白な産着に※鷺草の絵を見事に描き切った。 「これを……我が息子…夕…凪へ……そして……母の名は……夕顔……と…教えてあげて…」 **** 「その後、暫くして亡くなってしまったのだ。産後の肥立ちが悪かったんだ。産後間もなくはるばる京都から鎌倉まで、乳飲み子を抱えて旅をしてきたというのだから、無理もない。あの当時にはよくあることだった」 「京都……」  もう言葉が出なかった。当てはまる。何もかも当てはまりすぎる。  律矢さんが語っていた大鷹屋に出入りしていた女流友禅作家、その人が夕顔という女性で……それで…… 「夕凪……」  己の名前を…もう一度繰り返す。今までなんの意識もしてこなかった己の名前がつけられた由来を、俺は今まざまざと知ってしまったのだ。 「あっ……俺は……俺は…」  喉が潰れたように、その先の言葉が上手く出てこない。湖翠さんも流水さんも俺の動揺した様子に何かを感じ取っていたようだ。 「君……大丈夫か。君はもしかして……いや……まさか…」 **** ※鷺草 花は真っ白で、3つに分かれた形をしています。左右の花びらに深い切れ込みがいくつも入っており、シラサギの羽のように見えることが和名の由来です。「清純」「夢でもあなたを想う」という花言葉は、サギソウの真っ白で切れ込みの入った美しい花姿からつけられたそうです。
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