月影寺にて 5

1/1
前へ
/174ページ
次へ

月影寺にて 5

「俺の本当の名前は……夕凪です」  やっとのことで本名を告げることが出来た。この人たちが話す『夕凪』という赤子は俺のことだ。もう間違いないだろう。この名前……この名前がつけられるにあたって、まさかこんな悲劇があったとは。 「やはりそうなのか! 助けた時から君の面影が夕さんに似ているとずっと思っていたのだ」 「湖翠兄さん驚きました! この子が本当にあの夕凪なんですか」 「あぁ間違いないだろう。そうだ……腕を見せてくれ。右腕の肘近くに火傷の痕があるはずだ!」  俺の腕に……? そういえば普段は意識していないが、確かに右腕の肘部分に古い火傷の傷があった。 「もしかして、これですか」 「やはり……」  傷痕を見るなり、湖翠さんも流水さんも涙ぐんだ。 「あぁ……やはり痕になってしまったのだな。すまない。本当にこの傷がつかなければ僕たちは夕凪をこの寺から手放すこともなかったというのに。お前がこんな目に遭って再びこの寺に戻って来るとは一体なんの因果なのだろう。これでは……夕さんが案じていた通りだ」 「この傷が原因とは教えてください。何があったのですか」 「……それはだな」 ****  夕さん……いや、本名は夕顔さんか。彼女はそのまま生後三か月足らずの夕凪を残して黄泉の国へと旅立ってしまった。  幸薄い女性で、最後まで息子の幸せを願っていた。  そして最後の言葉はこうだった。 「私のように憂き目に遭った人が、きっとまたこの寺にやってきます。それが男性でも女性でもどうか無条件に助けてあげてください。私みたいにこの世を去ることのないように、どうか……どうかお願いします」  意味深な言葉だった。  憂き目というのは少年の僕にはまだはっきり分からなかったが、今ならば分かる。彼女は凌辱されて身籠ってしまったのだ。さらに相手の男性が夕凪を奪おうとしたので、産後間もない身でなりふり構わず、この寺まで逃げて来たのだ。  自分の躰と引き換えに、夕凪を助けたかったのだ。たとえ父親が誰であれ、彼女は腹を痛めた息子を一番に考えていたのだ。  僕の両親は寺の敷地内に夕顔さんの墓を立て、供養した。そしてすぐに夕凪の今後を話し合う機会が設けられた。 「父様、母様……どうか夕凪をこの寺の……僕の弟にしてください」 「俺も可愛がります。ちゃんと面倒みます」  僕と流水は懸命に両親へ願い出た。   「だが母親が亡くなった今、その子には新しい母親が必要だ。まだ小さいうちに里子に出した方が良いのではないか。お前たちは男で母親の代わりにはならないのだから」 「絶対嫌です。手放しません。夕凪は僕の弟です! 」  離れたくなかった。僕の胸を温めてくれる可愛い赤子は、もう離れがたい愛しい存在になっていたのだ。 「しょうがないな。お前達が面倒をきちんとみるというのなら様子をみても良いが……だが、お前たちも学校があったりして、四六時中この子を世話できるわけではない。それは分かっているのか」 「はい父様や母様の負担になってしまうかもしれませんが、この子は本当に僕たちに懐いて……まだこんな小さいのに母親と死別して、せめて母親の墓の近くで育ててやりたいのです」  必死の訴えで何とか両親の許可を得て、夕凪はこの寺の子になった。僕たちの可愛い弟。母親似の美しい赤子は抱いているだけで幸せを運んでくれるような白き花の香りがした。 「夕凪、夕凪。何処へも行くなよ」 「ずっと俺たちが守ってやる」 「あぶぶ……」  流水と交代で夕凪の世話をした。不思議と夕凪はあまり泣くこともなく、いつもニコニコと柔らかく微笑んでくれていたので、手を煩わすこともなかった。  僕たちは毎晩夕凪を挟んで川の字で寝た。小さな手をきゅっと握りしめてやると、すぐにきゅっと握り返してくれる。温かい小さな手……ずっと見つめていたくなるような美しく可愛い赤子だった。  夕凪はお座り・這い這いとすくすくと順調に成長していた。 「湖翠兄さん、夕凪は本当に賢いですね。それにすごく綺麗な顔をしている。きっと将来美人になるでしょうね」 「流水、夕凪は男だぞ? だがきっと母親似の凛とした綺麗な少年になるだろうな。僕たちも負けていられないな」 「夕凪にとっていい兄になれるように、俺も頑張ります」  まだ幼かった少年の僕達兄弟が、赤子の夕凪を一生懸命世話する姿は、皆を喜ばせていた。  本当に、幸せな日々だった。  だからなのか……そんな油断が、あの悲しい事故を招いてしまったのか。
/174ページ

最初のコメントを投稿しよう!

776人が本棚に入れています
本棚に追加