月影寺にて 6

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月影寺にて 6

 僕は中等科での勉学が日に日に忙しくなり帰宅が遅くなることが増えていた。そんな理由で二歳年下の弟の流水に夕刻の夕凪の世話を任せることが増えてしまっていた。  あれは吐く息も白い、とても寒い冬の日のことだった。一刻も早く夕凪に会いたくて北鎌倉の駅から急ぎ足で帰宅し、すぐに外套を脱いで二階へ駆け上がった。すると弟は自分の文机に頭をのせて、うたた寝をしたていた。  僕たちの八畳ほどの子供部屋には夕凪の気配がなかった。さっきまで遊んでたのだろうか、木製のガラガラが畳にぽつんと転がっていた。 「ただいま流水。夕凪は?」 「あっ兄さま、すいません。うたた寝をしてしまっていたようで……あれ? 夕凪はどこだ?さっきまでここで遊んでいたのに」  夕凪はまだ伝い歩きも覚束ないのに、一体どこへ?  一気に不安が過った。流水も自分のうたた寝中に、夕凪を見失たことに顔面蒼白になっていた。 「来い、探しに行くぞっ」 「兄さま、すみません。俺が目を離したから」  その時だった、階下から幼子の悲鳴が聞こえた。 「ギャーっ! 」 「夕凪かっ? 」  二人で慌てて階段を駆け下り悲鳴がする方向を探した。それは庭先からだった。いつも使用人が落ち葉を集め焚火をしている場所だ。  一体なぜ……いつの間に外に出たのか。どうやって階段を降りたのか。そして、この悲鳴の理由は! 嫌な予感で心臓がざわつき、下駄をひっかけ弟と共にその場へ駆けつけた。 「夕凪っ無事か? 」  夕凪は落ち葉にまみれ、焚火の中に腕を突っ込んで悲鳴を上げていた。その澄んだ両目から大粒の涙を零し、苦痛に満ち表情を浮かべていた。 「なんてこと! 水だ! 水をっ!」 「夕凪っ! 夕凪っ!」  慌てて夕凪の着物に付いた火の粉を僕の着物で払ってやると、夕凪は恐怖に震えぎゅっと飛び込む様にしがみついて来た。 「ふぇっ……ふぇっ」  きゅっと私の胸元に顔を埋め、泣きじゃくっている。本当に胸の中にすっぽり入ってしまうほど小さい生き物なんだ。まだちゃんと四六時中大人が見守っていないといけない時期なんだ。僕と弟は煤にまみれながら抱き合って泣いた。 「ごめんよ夕凪……腕……痛かったな。ごめんよ」  結局、焚火から目を離した使用人も厳重に注意されたが、僕と弟もこっぴどく叱られた。そして、とうとう父と母は溜息交じりに告げた。 「湖翠、流水、よくお聞きなさい。今回の件は一歩間違えれば大事故になっていましたよ。幸い腕の火傷で済みましたが、これでよくお分かりになったでしょう。幼いあなたたちに夕凪の世話は無理だということを。夕凪には良い養子縁組の話が来ていますので、そちらへ行かせることにしますからね」    養子……そんな。夕凪が手元から消えてしまうなんて! 「そんなっ。駄目です。夕凪は僕たちの弟だ。離れ離れになるなんて嫌ですっ」  必死に懇願した。 「いいえ、よくお聞きなさい。湖翠はこれからもっと勉学が忙しくなっていくのよ。流水だって二年後には中等科へあがるし、貴方たちはこの寺の跡取りとして立派に勉学に励み、仏門の修行も深めていかなくてはいけない大切な時期なの。これ以上夕凪のことに関わるのは許しません」  両親の決断は揺るがない。 「それはわかっておりますが……夕凪が…夕凪がそれでは可哀想です」 「ご安心なさい。新しい両親は京都で老舗の呉服屋をやっている方で、お母さまはとてもお優しそうでしたよ。ご夫婦にはずっとお子が授からず跡取りとして育てたいと言ってくださっているの。悪い話ではないのよ。夕凪にとっても良い事なのよ」  京都そんなに遠くに行ってしまうのか。 「ですが……」  僕の膝の上にちょこんと座っている夕凪が、穢れなき澄んだ目で私のことを見つめている。ただ……ただ……その腕の白き包帯が痛々しかった。 「またこのような怪我をさせたいのですか」 「それは……」  まだ幼いばかりの僕には、何も言い返せなかった。  新しい両親が優しくて、母親としての愛情をこの夕凪にかけてくれるのなら。  老舗の呉服屋の跡取りとして立派な教育を受けさせてくれるのなら。  そんなことで己を納得させるしか術がなかったのだ。あの頃の僕と弟には……
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