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君を探し求めて 11
「夕凪との最初の夜の思い出……」
そう口に出してはっと息を呑んだ。
心がざわりと音を立てた。
忘れてしまいたい……自分のあさましい行動を思い出していた。
俺にとって夕凪を初めて抱いたのは、そんな美しい想い出なんかじゃない。大鷹屋の使用人用の風呂場で、嫌がる夕凪を力づくで冷たく固い床に押さえつけ……無理矢理に……何度も何度も突いたのだ。夕凪が気絶するほどの酷い扱いをしたのだ。そしてその夕凪をあの山荘に幽閉して、気が向くままに朝な夕なに抱き続けたのも、すべて俺の仕業だ。
夕凪との出会い。
思い返せば……あれは春先の祇園で、品の良い青年が男達に絡まれているのを偶然助けたのだ。最初は助けたその青年の顔が、かつて憧れていた女絵師の面影を強く残していることに驚いたのだが、時間が経つと、その面影よりも青年の凛とした佇まい、はっとする程美しい横顔が忘れられずに悶々としてしまった。
そんな時に急に実家の風呂場で探していた青年が裸で俺の目の前に現れたのだから、無理矢理にでも俺の物にしたい衝動が止まらなかったのだ。つまり……俺にとっての夕凪との初夜は、夕凪にとっては最悪なものだ。いきなり男に風呂場で犯される羽目になったのだからな。
だが、信二郎との初夜は違うようだった。
その筆……夕凪が旅立つトランクに忍ばせたのが、すべて物語っていると思った。
二人の初夜は夕凪にとっても甘美な思い出となっているような気がした。
敵わないな……これじゃ……全然。
夕凪の実の父は俺の父だ。つまり半分血が繋がっているという身の上なんだ。夕凪を無理やりに手籠めにし続けた俺と違って、信二郎の愛は無垢で純粋だ。そう思うと急に肩の力が抜けてしまった。もうこれ以上は俺が出しゃばる場面ではないのだ。
夕凪に会いたい。だが俺はふさわしくない。それをまざまざと見せつけられたような気がした。
「信二郎……お前が夕凪を迎えに行けよ。俺はここで降りる」
「えっ一体どうしたんだ?ここまで来てそんな急に」
信二郎が意外そうな表情を浮かべた。
「いや……俺よりもお前の方が夕凪にはふさわしい。ただそれだけだ。きっと荷物を届けてくれた人を辿れば、何か夕凪の足取りを掴めるんじゃないか」
「それはそうだが……だが、それじゃお前は……」
「いいから、そうしろっ」
これ以上引き留められると、決心が揺らぎそうだった。だから強く言い放ち、足早に駅舎から抜け出た。
「あっおい! 待てよ、律矢! お前はそれで後悔しないのか! 」
呼び止める信二郎の声に、立ち止まることはしなかった。
****
「夕凪どうした? もう歩いても大丈夫なのか」
「あ……はい。湖翠さん……あの」
あれから数日が経過し、俺の躰の傷はほとんど癒えていた。湖翠さんと流水さんに助けられたお陰で、暴行を受けた後すぐに適切な処置を受けることが出来、命拾いをした。患部の裂傷が酷かったようだが、ちゃんと医師に診てもらえ、消毒や縫合してもらい治りが早かったのだ。だが目に見える躰の傷は癒えても……心に負った傷はいまだ燻るように残っていた。
心の傷を治すには、自分自身の力が必要だ。
「あの……俺に紙と鉛筆を貸してくれませんか」
「ん? あぁいいよ。もしかして絵を描くのか? 少し気力が戻ってきたようで嬉しいよ」
「はい……あのそこから庭に出ても? 」
「もちろんだよ」
手渡されたスケッチブックを片手に寺の庭に降り立った瞬間、律矢さんと過ごしたあの家の庭のことを思い出した。
「あっ……この花だったのか」
ずっと床に臥せっていた時、庭先に見えていた小さき白い花はあの日の鷺草とどこか似ていた。
京都にいた時、山荘の庭で律矢さんから絵を学んだ。律矢さんの描いてくれた鷺草の絵は、まるで飛び立つ鷺そのもののような躍動感があり心が躍るように興奮したものだ。
まるであの日手元から飛び立った鷺がここに来てくれたような不思議な気持ちがした。途端に律矢さんのことを考える気持ちが、引いていた波が押し返すように自然と満ちて来ていた。
無性に律矢さんに会いたい。
律矢さんあなたは今どこにいるのですか。
あの日熱を出した俺のことを、寝ずに看病してくれた本当は優しいあなたに会いたい。
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