夜空に描く想い 1

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夜空に描く想い 1

「夕凪、起きたかい?」 「あっはい。起きています」 「朝食の支度が整ったから、おいで」  毎朝決まった時間になると、襖越しに湖翠さんから優しい声を掛けられる。本当はもうそれよりずっと前に起きているのに、俺は部屋でその声がかかるのを、いつもじっと待っている。  もっと自分から何かをしたらいいのに……あれ以来、そう思えることが極端に減ってしまった。あれから何日経ったのだろうか。心の奥底で密やかに期待していた相手は、やって来なかった。  一体俺は……浅はかにも何を期待していたのか。  これでいい。もうこのままでいい。そう何度も自分を戒めた。 「夕凪はちゃんと睡眠をとっているか」 「……はい」  そうじゃない。本当は毎晩暗闇が恐ろしくてなかなか寝付けなくて慢性的な睡眠不足を起こしてる。 「顔色がずっと悪いから心配だ」 「……大丈夫です」  湖翠さんのやさしさが身にしみる。 「夕凪……まだ傷が癒えないのか。案ずることはない。ここはお前が幼い頃育った家だ。もうこのままずっとここにいればよいのだから、先々のことをそんなに心配するな」 「あの……俺は本当に此処にいてもよいのですか。ここでは何の役にも立っていないのに……このままずっと居候させてもらっていいのですか」 「居候だなど寂しいことを言わないでくれ。君は僕たちの大事な末の弟だよ。自分から何かをしたいと思うまで、躰と心を十分に休ませていればいい」 「本当に……俺なんかにありがとうございます」  俺は恵まれている。あんなことがあったのに、こうやって生きている。  兄と呼べるような人たちに労わってもらい、人並み……いやそれ以上の生活をさせてもらっている。  あの列車の中で行く当てもなく、ただ東京行きの切符を握りしめていただけの俺だったのに。 ****  食事を終え、湖翠さんはお寺の住職としての仕事に行ってしまったので、俺は流水さんを手伝って朝食の後片付けをしていた。 「夕凪、今日も庭で絵を描くのか」 「はい……そうしようかと」 「飽きないのか。毎回、同じようなことばかり。そうだ君は着物に詳しいんだよな。ちょっとおいで」 「えっ」  流水さんに手を引かれて、寺の長い渡り廊下の先の離れに連れて来られた。 「なっ! なんですか」 「くくくっそう焦るなって。もうそろそろ俺達兄弟にも慣れてくれよ。取って食いはしない」 「あっすいません」  あれ以来、誰かと密室で二人きりになるのを警戒しすぎてしまう。  そんな弱い心を見透かれたようで恥ずかしい。 「まぁしょうがないな。ほらこれをやるよ」  箪笥の奥から出されたのは、純白の反物だった。 「え……これは? 」 「夕凪は京都で着物の絵付けも習っていたって言っていたよな。これは好きにすればいいよ。紙にばかり描いていないで、本物の生地に描いてみたらどうだい? 」  手に感じる反物の重み。懐かしい。京都の若旦那時代を思い出す。ただ出来上がった反物や仕立てた着物を売るだけではなく、一から絵柄を考えたりすることもあった。一宮屋の独自路線として、俺が率先して始めたことだった。お客様の要望を伺い、それを絵師に描いてもらうという手法。  だから絵師を呼んで柄の相談をしたり、実際に絵師の工房を訪ねて、その作業を間近にみることもあった。そうだ……信二郎……君にいつも頼んでいたことだったな。  信二郎は、たまに俺に筆を握らせてくれることもあった。  思うがままに筆を走らせると、自分の手によって真っ新な反物の中に小さな新しい世界が生まれていくような感動を覚えた。それから律矢さんにも学んだ。あの山荘では、図案のことや実際に描く作業を教えてもらった。  今考えると二人は俺にとって最高の絵師であり、師匠でもあったのだな。  若旦那の立場もあって、それ以上に深入りすることが当時は出来なかったが、懐かしい思い出だ。 「ありがとうございます。俺……やってみたいです。あ……でも」 「ん、なんだ? 」 「あの……紙に描くのと着物に描くのでは……道具が違って」 「あぁ筆とか絵具のことか」 「はい、専用の筆と染料が……」 「よしよし、その気になったのなら、俺がすぐに兄さんに頼んで買い揃えてやろう」 「えっいや、そんな悪いです」  何から何までお世話になるのは悪いと思って、頭を振ってしまった。 「夕凪っこらっ少しは甘えろ!」  俺の頰を流水さんは両手で挟んで、諭すような口調でそう言ってくれた。  もう十分お世話になってるのに、これ以上甘えても良いのだろうか。  急に沸き起こった衝動に似た感情。  やってみたい。描いてみたい。反物に触れたい…  温かい手のひらだった。  こんな俺のために、実の兄のように心配してくれる温情の手だ。 「やってみたい……やらせて欲しいです」  気が付くと……素直に感情の赴くがままに、そう答えていた。
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