夜空に描く想い 2

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夜空に描く想い 2

 眠る前にもう一度、流水さんから渡された純白の反物に触れてみた。  正絹の生地は、とても上品にしっとりと輝く乳白色だった。そして体に馴染みの良いしなやかな柔らかさを持っていた。この触り心地……色合い……何かに似ている。何かを思い出す。  そうか……これは白無垢を連想する生地だ。  そういえば、桜香さんは元気だろうか。  ふと昔の……遠い眩しい時代を思い出した。彼女と俺は何もなければあのまま婚約し結婚するはずだった。当時の俺は呉服屋の一人息子として跡目を継ぐのが当然で、見合いで結婚することに何の疑問も抱いていなかった。  彼女は将来の一宮屋の女主人として知識も教養もある女性で溌剌と明るい人だったので、特に不満もなかった。何もなければあのまま、今頃は新婚生活でも送っていたのだろうか。  もしも信二郎にあの日突然抱かれなかったら……それとも両親が俺を大鷹屋に行かせなかったら。  いや、もう仮定の話はやめよう。結納間近の若旦那に戻りたいわけじゃない。  いずれにせよ……もう俺は女性を受け入れられない。  あんなに深い愛を知ってしまったから。  信二郎と律矢さんから、存分にそれを受け取ってしまったから。  こうなることが決まっていたかのように、その考えがしっくりと来た。  それにしても俺がこの反物に本当に絵を付けても良いのだろうか。目を閉じれば、あの母の墓の前で邂逅した青年の顔が目に浮かぶ。彼は確かに俺だった。そして幸せそうに男性と手をしっかり繋いで立っていた。  遠い先の世界の俺は幸せそうだった。  彼に届けたい。  俺という人間がいたことを……だがどうやったら届くのか。  彼のことを思い出しながら、今の俺は彼のように幸せでないことを実感してしまった。俺のことを求め抱いてくれた人が、すぐ傍にいないことの寂しさが募る夜だった。 「うっ……会いたい……会いたいんだ」  柔らかい布地を胸元にかき抱き、俺はその場に蹲り涙した。  律矢さんと信二郎の二人に会いたい。  欲張りな願いだ。  こんな俺だから、こんなことになっているのか……悩ましくて、でもどうしようもない想い。こんな想いがあるなんて、俺は何一つ知らなかった。 **** 「結局、無駄足だったな」 「あぁ本当にまさか足取りが全く掴めないなんて」  大船駅に海風と一緒に降り立った。それから駅構内、商店とあちこちに夕凪の身なりや容姿を説明して聴きまわったのに、一向に手がかりが掴めないまま東京へ戻って来てしまった。  流石に私の落胆は隠せなかった。 「あんたさ、もう京都へ戻るのか」 「いや、せっかく東京にまでやって来たのだ。暫くこちらに滞在するよ」  夕凪のいない京都に戻っても意味がない。次に私が京都へ戻るのは夕凪と一緒の時だ。そう決めていた。 「そっか……行く当てはあるのか」 「まぁ適当に働くところを見つけるよ」 「あのさ……俺はたまに実家の行商の手伝いで大船辺りにも行くから、なにか手掛かりが掴めたら、あんたに連絡するよ」 「あぁぜひそうしてくれ」  夕凪は確かに、あの大船駅に降り立ったのだ。  私もまた行って見よう。  彼を見つけるまで、決して諦めない。 ****  夕凪のことは信二郎に委ねた。  もう諦めたつもりだった。  だがやはり諦められない。  そんな矛盾した想いを抱え、俺は美術館を後に上野駅へと向かっていた。  もういっそ京都へ帰ろう。  それがいい。自分自身の心に必死に蓋をしようと必死だった。  なのに何故だ。
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