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夜空に描く想い 3
「なんてことだ!」
上野駅からすぐ近くの闇市で、俺はそれを見つけてしまった。
薄汚い露店の片隅に無造作に掛かっていた、場違いな程上質な男物の上着。夕陽を浴びてキラリと俺を誘うように、風にはためいていた。
焦げ茶色のウールを使った背広の上着……ほっそりとしたシルエット。一目で上質なものだと分かるそれは、見覚えのある生地だった。
細身の若い男のためあつらえたもの。この細かい格子の模様……あぁこれは夕凪のものだ。
飛びつくように近くまで行って、確信した。さっきまで握りしめていた夕凪の写真と同じものだ。
「おいっ! これは……これはどうした?どこで手に入れた? 」
「おっ兄さんお目が高いですなぁ。これはかなりの上物でっせ」
「どこで手にいれた? 」
「はっ? あぁ列車の忘れもんだよ。へへっ。ここは闇市だからそこんとこよろしく。こんなんは拾ったもん勝ちさ」
「どこの駅だ! どこでこれを」
「さぁ俺は上野駅に着いた列車の清掃屋だからね」
「そうか……では、これはいくらだ? 売って欲しい」
「おっ兄さんいいのかい? 上質だと思ったが季節外れだろ? なかなか売れなくてよ。しかしこんな上等な上着忘れていくなんて馬鹿だよな。いいよ。ほらまけてやるから持っていってくれよ。やっぱ夏物じゃないと売れねーな」
闇市で偶然見つけた夕凪の上着。
そっと人知れず胸に抱くと、夕凪の香りが微かに広がった。
「ゆうなぎっ」
不覚にも涙が浮かんで来た。
「くっ」
俺がこんな風に泣くなんて……いつぶりだ。人恋しいということは、こんな風に…大の男が外で泣くに値することなのだな。俺は自由奔放に生きていて、こんなにもただひとりの人を追い求め恋しく思う感情が存在することすら知らなかった。
今の俺には、この上着が手元に残った唯一のものだった。
夕凪の抜け殻と共に、俺は京都へ帰る列車に乗り込んだ。
****
「あの……夕凪ですが」
「あぁお入り」
数日経ってから、湖翠さんの部屋に呼ばれた。中に入ると見知らぬ男性が大きな風呂敷を横に置き、正座していた。
一体なんだろう? つい身構えてしまう。
「夕凪、こちらはうちの寺で贔屓にしている筆屋さんだよ。夕凪が着物に絵付けをするのに必要なものを見繕って来てもらったから、使い心地の良いものを選びなさい」
「はじめまして筆工房のものです。いつも月影寺さんには写経の筆などを収めさせてもらっています。着物の絵付けに必要な筆を揃えて来ましたので、どうぞごゆるりとご覧ください」
そう言って男が風呂敷を広げると、さまざまな太さの絵付け筆が並んでいた。
「こちらはごく細い線が描ける筆でコシがあり、含みの良い最良の筆としてうちの店で一番売れているものですよ。それと染料も合わせて持ってきました」
「湖翠さん……いいのですか。俺なんかに……ここまでして」
「当たり前だよ。夕凪が好きなことをすればいい。さぁ良いものを選びなさい」
そっと手に触れ一本一本の毛並みを確かめていると、ふと遠い日の感触が躰に蘇って来た。
あの日信二郎の工房で……俺はこんな風に並んだ筆を手に取っていた。背後から信二郎の腕がまわり、躰と躰がぴったりと密着するほど抱きしめられていた。
****
「夕凪どうだ? 気に入ったものがあるか」
「ん……太さが全部違っていて、とても美しい筆だね」
「そうか……私はまたこの筆で、君の躰に絵を描きたいが」
「えっ」
俺の躰の上を縦横無尽に走った筆先。
そのことを思い出して、途端に躰がかっと熱くなった。
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