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夜空に描く想い 5
「ずいぶん綺麗な子ですね。ご親戚か何かですか」
「あの子は……大事な弟だ」
筆屋の男に問われて、咄嗟にそう答えてしまった。
いや間違いはない。僕にとって、夕凪は大事な歳の離れた弟に間違いない。あの赤ん坊の時の頼りない温もりを、未だにこの腕が覚えているのだから。
「このことは他言しないように」
「あっはい」
出入りの信頼できる筆屋だが、どこでどう噂が広まるかわからない。夕凪を襲った男達の行方は未だに掴めていない。夕凪はあの日のことを何も語らない、いや……もう思いだしたくないのだろう。だから私や流水も忘れてやるのが一番だとは思うが、可愛い弟を慰み者にした恨みは簡単には消えなかった。
もう手放したくない。
危ない目に合わせたくない。
そうだ……夕凪のことはずっとこの寺に閉じ込めておきたい程、私は溺愛しているのだ。その感情を周りに悟られないように、最大限に気を遣っている。
「それでは毎度有難うございました」
「いやこちらこそ無理を言ったな。急に着物の絵付け用の筆や染料なんて持って来てもらって」
「いえいえ。とんでもないです。うちの店は結構着物の絵師さんからも重宝されているんですよ。次はいつ来ましょうか」
「そうだな、ひと月後に……また筆や染料を見繕って寄ってくれ。筆は細く繊細なもので、染料が深い青色がいい」
なんとなく希望を述べてみた。夕凪に似合いそうだと思ったから。
「畏まりました」
筆屋を玄関先で見送った後、夕凪の部屋に立ち寄った。
「夕凪、入っていいか」
「えっ! あ……待って下さい」
襖の向こうで、ガサっと慌てる衣擦れの音がした。何をしているのかと不審に思い、襖を開くと、夕凪が真っ赤な顔をしていた。
夕凪の着物は少し乱れ……床には先ほど買い与えてやった筆や染料が散らかっていた。夕凪しかいない部屋。いつもきちんとした佇まいなのに不思議な光景だった。
「どうしたんだ?」
「なっ何でもないです」
「熱でもあるのか。どれ……」
恥ずかしそうに俯く顎を掴んでこちらを向かせると、目も潤み頬も赤い。なんて艶めかしい表情を……夕凪は一体誰を思い出していたのか。
手放してからも幾度となく夕凪のことを思い出した。
幼子のまま成長が止まったかのように感じていた。
だから夕凪がこんな美しい青年となり、しかも男に抱かれた躰で戻って来るとは思ってもみなかった。
何故だか悔しく、何故だか寂しい気持ち。
これは大事な弟を奪われた悔しさからなのか。
「湖翠兄さん、夕凪? そんな所で何をしているんですか」
突然、廊下から声がした。
流水が少しきつい目で、中を伺っていた。
何故だか、弟の流水に夕凪と二人でいるところを見られると恥ずかしかった。
この弟はいつだって僕だけを見つめてくれるから……己の気持ちの何もかもを見透かされたようで怖くなる。
「あぁ夕凪が具合が悪そうで」
「そうか……夕凪、また具合悪いのか」
「あっ……少し」
「ほらほら、急に無理すんな。湖水兄さんも夕凪が可愛いからって、なんでもかんでも一度に与えてしまっては疲れるだけだ」
そう言いながら、流水はずかずかと部屋に入って来て、畳の上に散らかっている筆や染料を黙々と片付け始めた。
「さぁ夕凪もう横になれ。明日やればいい。あっそれからまだ一人で出歩くなよ、ましてこの寺から出る時は絶対に一人になるな」
「どうしてですか」
「人気がないし物騒だ。まだお前はこの土地に詳しくないだろう」
「でも題材を探しに、野の花を探しに行きたいのに」
「あぁそれなら俺が一緒に行くから、分かったな」
そんな会話で、その場はなんとなくうやむやに終わった。
一人部屋に戻り、先ほどの夕凪の乱れた様子を想い浮かべてみた。あの表情に見覚えがあった。そうだ……僕の表情と似ていたのだ。僕が流水を思う秘めたる想いを、ひとりで零す時の表情に。
夕凪には、深く愛する人がいるのだ。会えずにいると躰の熱を持て余す程の愛を受けた人がいるのだ。
それを改めて確信し、深いため息が漏れた。
夕凪だけは幸せにしてやりたい。たとえその道が険しくとも……なんとしてでも。
僕はいい。
僕の想いは、あの世まで抱えていく秘めたるものだから。
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