白き花と夏の庭 2

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白き花と夏の庭 2

静岡県 須藤筆工房内 「えっ俺に代わりに行けと? 帰省したばかりで、今日はゆっくりしていたいのに」 「そういうなよ。海風なっ頼む。腰が痛くて今日は一歩も歩けないんだ」 「はぁ兄さんはもう歳だな。全く」 「悪いな。今日絶対に届けると約束をしているんだ」 「はいはい、で……何処に行けばいい? 」 「鎌倉の寺だ」 「寺? あぁ昔から写経の筆を収めているあの寺か。なんていう名前だっけ? 」 「月影寺だ」 「そうそう、名前しか聞いたことないけれども縁が続いているんだな。父さんの代から。で、どれを持って行けばいいんだ? 」 「行ってくれるのか? 有難いな。そこに用意してある一式だ。場所はだな」  兄は月影寺への簡単な地図を書いて持たせてくれた。この店の跡取りでもない俺だが、こうやって帰省してはよく店番を頼まれるので、筆についての知識がないわけじゃない。だが先方を訪ねるという行商は初めてで緊張する。  出掛ける前に風呂敷に包まれた大きな荷物を抱え、もう一度部屋で休んでいる兄の所へ寄った。 「じゃっ早速行ってくるよ」 「あっ海風に言い忘れたことがある」 「何? 」 「あの寺で見たり聞いたりしたことは、他言無用だからな」 「なんのこと? 」 「行けば分かるよ。とにかくそれだけは守ってくれ」 「よく分からないけど、そうするよ」  北鎌倉の駅で下車した。ここから緩やかな坂を暫くのぼっていけば、月影寺に着くそうだ。  風情ある佇まいの家並みを横目に歩いていると思い出す。隣の大船駅には、ちょうど一年前散々通ったもんだ。懐かしいな。そういえば最近、信二郎と会っていないが、あいつは大丈夫か。  結局探し人には未だ会えていないなんて気の毒だ。あんなにも探していたのに、会えないなんてもどかしいだろう。なんとかしてやりたかったけど、目撃者もいなく為す術がなかった。  風情ある大きな古寺の山門を潜ると、作務衣を着た男性と出会った。 「誰だ? 」 「あの静岡の須藤筆工房のものです。兄が急病で来れないために急遽、弟の俺が」 「あぁ弟さんか。あぁ確かに筆だな。待っていたよ。どうぞ」  通された部屋で風呂敷を広げると驚いた。てっきり写経の筆と墨だけかと思っていたら、色鮮やかな染料に繊細な筆まで沢山出て来たのだから。  これは確か……どこかで見たことがある。あぁそうだ、信二郎が使っていたものと同じだ。着物の絵付けに使う筆だ。こんな山奥の寺に着物の絵付けの道具なんて……どうにも不可解だ。  すぐに部屋に入って来たのは、この寺の住職の湖翠さんという人だったが、俺の顔を見るなり、不機嫌になった。 「若旦那はどうした? 」 「あっすいません、腰を痛めて歩けないため、急遽弟のわたしが来ました。須藤海風と言います。よろしくお願いします」 「……困るな」 「え? 」  そんなに怒らせるようなことをしたのだろうか。何故だか相手はとにかく不機嫌だ。  すると暫くの沈黙の後、襖の向こうから声がした。若い男性のようだが、はっとするほど澄んだ綺麗な声だった。 **** 「湖翠さん入ってもいいですか」  暫くの沈黙の後、意外な返答があった。 「いや駄目だ。ちょっとそこで待っていなさい」  いつもなら筆工房の若旦那さんがやって来ると、中に入って一緒に実物を見て選ぶのに、今日は何故いけないのだろう? じっと息を殺すように待っていると、湖翠さんだけが何本かの筆を持って部屋から出て来た。 「この筆でいいか。今日は悪いが、これだけでいいか」 「あ……はい。でも何故、部屋に入ってはいけないのですか」 「あぁ…今日はいつもの筆屋の若旦那が具合が悪いそうで、急遽代理でその弟が来たのだ。兄の方はこの寺と付き合いが長く、信用の置ける人物だが、弟の方は初対面だから、まだ夕凪の姿をむやみに見せるわけにはいかない」 「湖翠さんっそんないつまでも警戒し過ぎです。もう一年経ちました。もう俺は大丈夫です」 「いや、どこで誰が見ているかも分からないから、さぁこの筆を持って、部屋に戻りなさい」  俺は一年経った今もまだこんな風に過保護に守ってもらうばかりだ。流石に自分の不甲斐なさが気になる時もある。だが同時に優しく守られ頼れる人がいることの心地良さも、感じていた。  言われる通りに部屋に真っすぐに戻ったが、やることがない。  窓の外に広がる竹林が、サワサワと音を立てて俺を呼んでいる。その誘いに乗りたい。さっき渡された筆を使いたくてウズウズしてくる。  湖翠さんは多少心配症な所もあるが、希望すれば、流さんと一緒に街にも行かせてくれる。自由に動け、幽閉されているわけでもないのに、俺はもう一年もの間、自らの意志でずっとこの寺に閉じこもっていた。  結局我慢出来ずに、庭の木漏れ日がゆらゆらと揺らぐ野山にスケッチブックを片手に出かけた。  月影寺の庭は奥深く寺の背後に山のように広大に続いている。危ないから遠くへ行くなといつも二人に言われているが、もうずっと毎日歩いている道だ。  少しだけ今日は遠くに行ってみよう。  そんな気持ちで、写生するのに相応しい美しい花を探しながら歩き始めた。
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