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白き花と夏の庭 4
「これは……」
四つ折りの紙に書かれていた文字は、期待していた夕凪の筆跡ではなかった。そこには『月影寺』という寺の名前と鎌倉の住所が筆で走り書きされていた。何故、夕凪はこの紙を大事に胸ポケットへと忍ばせていたのだろう。
「律矢、さっきは何を騒いでいったのだ? 」
突然、背後から父親の声がした。会いたくない人にあったな、この忙しい時に。
「父さん……何ですか」
くそっ酒臭い。また真昼間から酒か。
「ん? その紙きれはなんだ? 」
「関係ありません」
「いいから見せてみろ」
父の手が強引に紙を奪おうと伸びて来た。抵抗したが紙が破れそうになったので、諦めて手を離した。
「おや……へぇ……これはこれは懐かしい。月影寺か」
「え……何故知っているんですか」
意外だった。父が何故この寺を知っているのか。
「はははっ、ここはなぁ、あの女が逃げ込んだ寺さ」
「あの女とは? 」
「夕顔だよ。お前を捨てた夕凪の母親さ」
「なっ! 」
「どういうことです。話して下さい」
「ひっくっ、さぁなもう昔のことだよ、忘れたよ。お前も夕凪に捨てられて可哀想になぁ~さぁこっちで一緒に飲むか」
「結構です。それよりもう少し詳しく話してください」
「へぇ珍しいな。お前が、わしに頼み事なんて」
「……お願いします」
夕凪のことが何か掴める絶好の機会かもしれない。俺は深く頭を下げた。
「はははっこの情報は高くつくぞ。この月影寺という鎌倉の寺に、夕顔は生れたばかりの夕凪を抱いて逃げ込んだのさ。その……お前の母親から陰で激しく虐められていたらしくて……その後……コホン、産後の肥立ちが悪くてすぐに亡くなってしまったそうだ。可哀想なことをしたな。わしが四方八方手を尽くして見つけた時には、夕凪だけがその寺にいたってわけさ。一応わしの息子だからそのまま寺に預けておくわけにもいかず、かといってお前の母の手前、引き取るわけにもいかず、結局子がいない一宮屋に頼んで引き取ってもらったってわけさ。それにしても、あんなに美しく成長するなら最初から我が手元で相手をさせたのに」
「なんてことだ! 夕凪はそのことを知っているのですか」
「さぁな。だが一宮屋には口止めしていたから知らないだろうがな。はははっ律矢、夕凪を見つけたら、わしにも一度くらい抱かせろよ」
「いい加減にしてくださいっ! 夕凪はあなたの息子であり俺の弟だ! 娼婦ではありません」
「はははっ、固いこと言うなよ、お前が言っても説得力ないぞ。夕凪を手籠めにしたのはお前も同じだろう。じゃあわしは出かけるから店のこと頼んだぞ」
父の言葉は重石のようにのしかかり、俺を押し潰した。
父の言葉は間違っていない。確かに俺は夕凪を無理やり奪った。それでも徐々に打ち解けて馴染んでくれた、あの姿が忘れられないのだ。
甘い夢を見てもいいか。
砂糖菓子のように甘い夢を。
****
翌朝……俺は一切の仕事を番頭に押し付け列車に飛び乗った。父の話で確信が持てた。夕凪はきっとこの『月影寺』にいる。縁ある寺が窮地に立たされた夕凪をきっと呼び寄せたのだろう。
とにかくこのまま京都にいても、仕事が手に着かない。ただ夕凪の無事を確かめたい、その一心だった。
俺も夕凪を追い詰めてしまった一人だ。
彼は気高き白い花だったのに……手折ってしまったのだから。
それでも……君を求めていいか。求めちゃ駄目か。
そんな淡い願いは未だ消すことが出来ず、俺の中で燻ったままだ。
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