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白き花と夏の庭 6
「うっ痛えー」
俺恰好悪いな。あそこから足を滑らせて転げ落ちたのか。
「イタタ……」
膝と肘にズキンと痛みを感じたので、ギュッと目を閉じて堪えた。するとカサカサと葉が揺れる音がして誰かの声がした。
こんな山奥に誰だ?
「えっ」
目を開けるとすぐに視界に飛び込んで来たのは、驚くほど綺麗な色白の顔。卵型の優美な輪郭に、はっきりとした二重の愛らしい目。大きな黒目が濡れたようにしっとりと潤んでいた。すっとした控えめな鼻梁に、薄く開いた形のよい桜色の唇。少し長めの前髪が程よい陰影を作っていた。
女性か……いや違う。全身を見ると華奢な躰だが……ちゃんと男だった。
おい待てよ。まさか……
俺はこの顔に見覚えがある。そうだ一度見たら忘れるはずがない。
「ゆっ……」
まさか君はずっと探していた夕凪じゃないか。驚きのあまり喉がヒュッと詰まった。それでも続けようとして喉まで出かかったのに、途中で言葉を制されてしまった。
「しっ静かに。まだ話さない方がいいです。頭は打っていないですか」
手際よく俺の後頭部を頭を探り確認してくれる。それから持っていた袋の中からガサゴソと水筒を取り出して、その水を白い布に含ませて、俺の肘の泥を拭ってくれた。
「あぁ良かった。ちょっと擦り剥いた程度のようですね」
「あっありがとう」
「いえ、散歩していたら急に大声がして驚きました。あそこから足を滑らせて落ちたんですよ。大した高さじゃなくてよかった。もう歩けそうですか」
そう促されるて立ってみると、さっきまでの痛みは消え、肘もかすり傷のようで大した血も出ていない。日ごろから鍛えているのが幸いしたのか、上手く受け身の体制を取れたのだろう。
「はぁ参ったな」
膝についた泥をパタパタと手で払い落としていると、青年は水筒の水をコクっと飲んでいた。少し汗が滲んだ額を手で拭いながら上下する喉仏。相手は確かに男のなのに、美しいと見とれてしまった。俺の視線に気が付いた青年が不思議そうな目をした。
「あの……何か」
「いやなんでもない。その水筒なんて持ち歩いてんのか。小さい子供の遠足じゃあるまいし」
なんでそんなつまらないことを言ったのだろう。
その青年はきょとんとした顔をした後、肩を揺らして笑ってくれた。
「くすっ」
あ……笑うとすごく可愛い。男にこんな気持ちを持てるとは驚いた。でも同時に信二郎が男を愛する気持ちがやっと理解できた。
「すみません、笑ったりして。俺には過保護な兄が二人いるもので」
「兄?」
「ええ。頼もしい兄達です。あの失礼ですが、あまりここにいない方がいいですよ。この山に無断で入ったことを兄達が知ったら大変なことになりますから」
少し言い難そうに,、でもはっきりと彼はそう告げた。
兄がいる? 信二郎からそんな話は聞いていなかったので不審に思った。
君は夕凪ではないのか。確かにあの日信二郎に見せてもらった写真と、同じ顔をしているのに。いや、他人の空似のはずがない。だってこんなにも美しい人が世の中に二人もいるはずがないじゃないか。
そして朧げな記憶だが、俺があの日、列車で見かけた青年のはずだ。遠目だったし駅のホームは暗かったのではっきり確信は持てないが、確かに会ったことがある。
「君はこの寺の人?もしかして……ゆう……」
「っつ……」
青年は少しだけ寂しそうに、それでも意志のこもった目で俺を真っすぐに見つめた。そのひたむきさに、言葉をそれ以上繋げることが出来なかった。
もしかして夕凪だと言うことを知られたくないのか。今幸せに生きているから……それとも何か事情があるからなのか。
やがて遠くから誰かを探しながら「おーい」と呼びかける声が聞こえて来た。
「あっ兄が探しているので、もう行かなくては。あの……もう本当にこの山には入らない方がいいですよ。舗装されていない場所が多いので危ないし……とにかくここを真っすぐ行けば大きな道に出ます。では……」
「ちょっと待って」
くるっと背を向けて走り出すその後姿は、まるで飛び立つ鳥のようだ。
結局夕凪なのかどうか聞けなかったな。なんとなく聞いてはいけないような気がした。
「さてと、どうしたもんか」
頭を掻きながら足元に残された白い布を拾い上げた。布はさっき俺の傷を拭ったせいで、泥で黒く染まっていたが、その中に小さく描かれた花を見つけた。
「これは!」
埋もれそうなほど小さな、それでいて穢れなき白き花だった。
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