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第4章 残された日々 1
夕凪がこの寺を去ってから、三カ月が過ぎた。
月日が経つというのは早いものだ。もう師走か……来年はどんな年になるのだろう。
この一年は夕凪を交えて、いつになく明るい年となった。
最初は酷い目にあったせいで酷く警戒して怯えていた夕凪だが、月日を経る度に自然と明るさを取り戻していった。本当に器量の良い賢い子だったな。
「一を聞いて十を知る」とは、まさに夕凪のことだった。
絵を教えてやった日々も懐かしい。夕凪が仕立て上げた着物は、我が家の家宝だよ。
湖翠兄さんも、ようやく夕凪のいない生活に慣れて来たようだった。最初のうちは、食卓でも庭先でもつい夕凪の姿を追ってしまうようだったが、もう今は追わない。
その代りに、たまに京の話を俺とする。
夕凪の話は直接せずに、旅で訪れた京の思い出を語るのみだ。
そして今宵も……
「なぁ流水、南禅寺はよかったよ。それでね……日本酒をもう少しだけくれないか」
「駄目ですよ。もう……兄さんはそんなに強くないのだから」
「だが、身体が温まって気持ちいいんだ」
「……兄さん」
一体、何に酔いたいのか。
兄さんは京都の話をしながら、熱燗をいつもより多く飲み続けた。
酔って目元が潤んで来ているのが艶めかしくて、もう見ていられない。
赤い舌がお猪口の箸をぺろっと舐めるのにぞくっと来てしまう。
俺はどこかおかしいのか。兄さんは血を分けた実の兄なのに、こんな下半身が疼くような感情を抱くなんて。
俺の視線に気が付いた兄さんが、思いつめたように話し出す。
「……流水……実はな、また見合い話が来た」
「えっ」
「……うん、今度は隠居した祖父からの強く圧力がかかっているから、困ったな。僕はしたくないのに」
「そうですか」
兄は結婚しない。
もう三十歳になろうとしているのに。
周りが心配して見合い話を次々に持って来るのに、全部会いもせずに断ってしまう。それが何故なのか分からないけれども、断る度にほっと安堵している自分がいた。
「兄さんは……どうして? 」
「んっ何だい? 」
「どうして、結婚しないのですか」
「……それをお前が聞くのか」
兄さんが言いたいことのその先にいるのが、俺だったらいいのに……そう思うのに、それはとても口に出せる代物ではない。
禁忌だ。
禁句だ。
禁じられている世界だ。
だから今日も俺は何も告げず、酔いつぶれそうな湖翠兄さんの肩を抱き、寝室へと連れて行ってやる。俺にしなだれかかる兄さんの華奢な躰と淡い色の柔らかい髪に、軽い眩暈を覚える。
「さぁもうお休みください」
「流水……本当は」
足元が覚束ない兄さんのために布団を敷き、そのまま寝かせてやった。灯りを消し立ち去ろうとすると、背後で小さな呟き声が聞こえた。
「何か言いましたか」
「……何でもない」
兄さんは寝返りを打って向こうを向いてしまったので、その表情が読み取れない。
こんなことが何度あったことか。
お互いが歩み寄れない夜が続く。
****
流水……行ってしまうのか。
今日も僕に触れずに。
馬鹿だな。僕は一体実の弟に何を望んでいるのだ。
触れて欲しい。
抱いて欲しい。
そんなのおかしいだろ?
間違っているだろ?
あり得ないだろう。
なのに、そう願うことをやめられない。
仏の道を進みながら、仏の教えを説いている身でありながら……僕の心は真逆の方向へ歩んでいる。
僕は流水が好きだ。
誰にも聞かれてはいけない言葉は、胸の内でいつも囁くのみ。
流水は僕のことをどう思っているのか。
せめてそれだけでも知る術があったらいいのに……
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