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(…この場合、やっぱり酔った勢い。というのが、一番穏当な言い訳だろうな…)
牧瀬広正は、隣に眠る同じ会社の後輩、房原歩を見下ろしながら思う。土曜日の遅い朝、ここは牧瀬の部屋のベッドの上で、そしてお互い生まれたままの姿。
牧瀬は上半身を起こすと、サイドテーブルに置いてある煙草を取って火を点ける。
昨夜は本社制作部の歓迎会で、名古屋から異動で戻ってきた牧瀬の歓迎会だった。もともと牧瀬はこっちの制作部にいたのだが、二年前、名古屋に出来る新しい事業部の立ち上げメンバーとして異動することになった。そうして名古屋事業部もなんとか軌道にのり、お役御免の牧瀬はめでたく東京の古巣に戻ってきたというわけだった。
そして昨夜の、お帰りなさい飲み会と言った方が正しい身内感覚の飲み会で、羽目を外し過ぎた。
そこには、3年前入社した房原がいた。
その年の新人教育を任されていた牧瀬だったが、牧瀬の指導は厳しく、新入社員からは恐れられていた。特に要領のあまり良くなかった房原にはかなり厳しくあたった。けれど意外なことに、一番シゴかれていた房原が、何故か一番牧瀬に懐いていた。のほほんとした房原は、良くも悪くも少々のことではへこたれないらしい。
(だからと言って、この事態は予想外だろうな、こいつも)
牧瀬は、目にかかる薄い色の髪を掻き上げて、溜息と一緒に煙を吐き出した。横で眠る7つ年下の房原は、その大きな体を折り曲げて、半分口を開けよく眠っている。
でっかい犬みたいな間抜け面。なんとかレトリーバーとかいう身体も顔もデカいのっそりした奴、あれに似てるな、と思う。
二年ぶりに会った房原は、多少は成長したのか、なんだか少し違って見えた。だがこうして寝顔を見ている限り、やっぱり全然変わっていない。あの頃の、叱られても怒鳴られても後をついてくる犬ころみたいな房原のままだ。飲み会の席でも、嬉しそうにずっと牧瀬のそばで飲んでいた。
牧瀬は少し微笑んで、その寝顔を見つめていた。少しグリーンがかったガラス玉っぽい瞳。牧瀬は生まれつき色素が薄くて、髪も瞳も黒くない。茶色というより、緑灰色がかった不思議な色。そして、日に当たっても焼けずに赤くなるだけの白い肌。
出版社の制作という仕事柄、スーツなんてたまに外部の偉いさんと会うとき着るくらいのもので、いつもTシャツにジーンズ、髪も伸びっぱなしのラフな格好で、見た目では年齢が全然わからない。黙っていれば若く見えるが、仕事中は若い奴らを顎でこき使い、そのこき使い方も堂に入っているので、かなりの年長者にも見える。
「んー…」
目が覚めたのだろうか、房原がもぞもぞと動き出す。伸びてきた手が、無意識に牧瀬の腰に巻き付いてくる。牧瀬に比べると随分日本人らしい肌色の、筋張ってごつごつした腕が牧瀬の白い腰を引き寄せようとする。
慌てた牧瀬は思わず、房原の頭を叩いていた。
「この…、いい加減、起きろ!」
「ってぇー。ん…、あれ? 牧瀬さん」
房原は頭をかきながら、寝ぼけ眼で牧瀬を見上げ呟く。まだこの状況がわかっていないらしい。
「ここ…、どこですか?」
「俺んち」
周りを見渡して、それから自分と牧瀬を見て、やっとお互いが裸だということに気付く。
「え、――えぇ?」
空中にクエスチョンマークが見えそうな、リアクション。うーん、素直な反応。牧瀬は他人事のように、眺めてしまう。
「ま、牧瀬さん?」
「なんだ」
冷静に煙草を吹かしながら答える牧瀬に、顔を真っ赤にしてパニくってる房原が訊く。
「あの、昨夜、俺たち――」
「んー、結ばれたんじゃねぇ? 俺けつ痛ぇし」
冗談めかした口調でさらりと言った牧瀬の言葉に、いっそう顔を真っ赤にして――それこそ茹でダコという表現がぴったりきそうなくらい――、房原は裸を隠そうと、デカイ図体に慌ててシーツを巻き付ける。
コントみたいなその反応。牧瀬は自分が、部下の女の子を酔わせて頂いちゃったセクハラ上司になったような気がして、笑ってしまった。でも、実際それに近い状況かもしれない。ホントの所は。
「ま、お互い酔ってたし、覚えてないだろ? おまえ。――俺もだ」
「――はい…」
言われて、素直に認める。目に見えて落ち込んでいる房原。酔った勢いとはいえ、男と一夜を過ごしてしまうなんて、そりゃ落ち込むだろうな――。ああ、吐きそうだ。気持ち悪い。
不意に襲ってきた唾のわき出る感覚に、堪らず牧瀬は立ち上がる。
「ど、どこへ?」
「トイレ」
そう言って、バスルームに駆け込む。もう、昨夜のうちに胃のなかのものは全て吐いていた。吐き気はするが、ただ胃液があがってくるだけで、余計辛い。
「だ、大丈夫ですか?」
きちんと閉まっていなかったドアを開けて、房原がおずおずと背中をさすってくる。
「おまえは? 二日酔い、平気なのか?」
「俺、翌日に残らない質なんで」
寝癖のついたぼさぼさの頭で、申し訳なさそうに照れ笑いを浮かべて言う。
牧瀬は立ち上がって、洗面台で口を濯ぐ。顔を上げると鏡越しに、何か言いたげに牧瀬を見ていた房原と目が合った。
「気にするな。酔ったはずみだ、お互い覚えてないんだし、なかったも同じだ。えーと、ほら、狂犬に噛まれたと思って忘れろ」
なんとなく例えを間違えたような気がするが、まあ、なんでもいい。
「そういうわけには…」
房原は、普段でも情け無さそうに見えるちょっと下がった眉を、余計に下げて口ごもった。
(忘れてくれなきゃ、俺が困るんだ――)
牧瀬は、そう心の中で呟いて、振り返った。
「あのなー、昨夜、ホラれちゃったのは俺の方なの。おまえはまあ、男相手とはいえ酔ってたんだし、基本的には女に対してするのと同じことしただけだし、とくに被害もないだろ。ヤラれた俺がいいって言ってんだから、いいじゃん、もう」
「でも…」
それでも、納得のいかない様子の房原に、牧瀬は怒ってみせる。
「あー、もう! おまえ二年も経ってんのに、全然変わってないな。そのいつまでも細かいとこに拘るとこ。――大体、仕事にしたって、おまえは時間がかかりすぎんの! いいモン作りたい気持ちは解るし、確かにおまえの仕事は、完成度も高いし、イイ出来だよ。けど、俺達は広告屋なの。締め切りもあるし、数こなさなきゃいけないんだ。アーティストじゃなくて職人なんだよ、職人! 質に拘ってばっかじゃ、だめなんだよ」
いつの間にか話がすり替わって、仕事の説教になっている。
「でも、質より量っていう考え方は、出来ないです…。俺、やっぱり」
自分より背の低い牧瀬に叱られて、背中を丸め、頭を深く垂れながらも、ぼそぼそと反論する。二年前、しょっちゅう会社で見られていた光景。ただ、それと今違うのは、二人とも依然裸のままというところ。
「誰が、質より量って言ったよ? 質落としてどーする? 同じクオリティ保ってスピードアップしろっつってんだよ! おまえ俺がいない間、二年も何やってたわけ?」
一応制作部のディレクター(主任)として戻ってきた牧瀬は、こっちに帰ってきてすぐ、過去半年分のデータを見ていた。制作マン一人当たりの制作本数や、一本辺りの平均所要時間や、内容の完成度など、シビアに毎月データとして出されている。
房原の評価はいま牧瀬が言った通り、作品そのもの対しては高いが、能率という点では低くなる。
「…すみません」
房原は素直に謝った。
そこで、牧瀬はふと我に返る。
「って、まあ今ここで、こんなカッコのままする話じゃないか…」
さっさと寝室に戻ると、適当にその辺にあった部屋着を着た。房原も慌ててついてくると、脱ぎ捨てた服を着ようとする。
「待て。服はしょうがないが、下着は着替えろ。新しいのがあるから、シャワー浴びてこい。歯ブラシも予備が置いてあるはずだ」
引き出しから新しい下着とバスタオルを出すと、房原に放る。牧瀬は仕事は厳しいし人一倍口うるさいが、その分面倒見も人一倍良かった。そのせいか、どんなに後輩を叱りとばしていても、心底嫌われてはいない。
「はあ、すんません。先に浴びちゃっていいんですか?」
房原は遠慮がちに、言う。
「俺はあとでいいから、いけよ」
そう言って牧瀬は、追い払うように手を振って背を向けた。
そして埃だらけのブラインドを上げ大きく窓を開けると、春先の乾いた風が流れ込んできた。
ベランダのない、5階の部屋。周りは古いビル街で、この建物自身も古く、もと雑居ビルといった雰囲気だ。住居用というより事務所か倉庫のような愛想のないつくりの部屋。取り柄は、だだっ広いことと、この窓から東京タワーが見えることくらい。
この部屋を借りたのは、それが気に入ったからだ。
そして、初めて東京に出てきてからずっと、もう10年以上ここに住んでいる。名古屋に行っている間、友達にセカンドハウスとして又貸ししていたのを、異動に伴い返して貰った。
晴れているのに薄ぼんやりとした、都心の空。高層ビルの間、きれいに切り取られた空間に、ぽつんと空に向かって立つ、おもちゃみたいな東京タワー。ずっと変わらない、風景。
窓の下を走る車の音と風の音に紛れて、シャワーの水音が、聞こえてくる。
牧瀬は、新しい煙草に手を伸ばした。
房原には昨夜のことは覚えていないと言ったけれど、それは嘘だ。酔っていたのは確かだけれど、記憶をなくすほどではなかった。自分から、誘ったのだ――。
吸い始めたばかりの煙草を乱暴に灰皿に押しつけると、牧瀬は溜息を吐き、窓枠に額をもたせかけた。
自己嫌悪と後悔で胃が痛い。昨夜は、酔ったはずみでも、過ちでもいいから――、と思った。そして牧瀬はその欲求に負け、酔った房原はそれに答えた。お互い酔っていたし、まともなセックスが出来るとは期待してなかった。真似事で良かったのだ。
それが、お互い男同士なんて初めてのはずなのに、最後まで結ばれてしまった。痛みはあったが、それ以上に――。
酔っていたのがかえってよかったのかもしれない。年上で、上司で、男同士で――。そんな、二人の置かれた立場や、後先のことなど考えずにすんだ。
だけど酔いはすっかり醒めて、白々とした、朝のこの状況。
どうするんだよ? これから毎日顔を合わせるのに。素面で、昼間に、上司と部下として。そう考えると、牧瀬は後悔と恥ずかしさのあまり叫びだしたくなる。一夜の思い出が欲しいなんて、本当に酔っていたとしか思えない。酒と、二年ぶりに房原に会えた喜びに。
房原が全然覚えていないらしいのが、せめてもの救いだった。
何度めかの溜息をついて顔を上げた牧瀬の視線の先に、東京タワー。
名古屋には、東京タワーもなく、房原もいなかった。
それこそ寝るヒマもないくらい、忙しい毎日だった。新事業部の立ち上げは、苦労も多いがやりがいもある。試行錯誤のなかで、新しいことを始めようとするエネルギーは、メンバー同志の絆も強くする。仕事も、遊びも、とても充実していた二年間だった。
だが、そんな充実した忙しい日々のなかで、牧瀬はなぜか、いつも何かが足りない気がしていた。
ピースの欠けたパズルのように、どんなに似通った形でも、そのピース以外では埋めることの出来ない隙間を、抱えたまま。
名古屋には、金の鯱も味噌カツもあるけれど、東京タワーがない。新しい、気の合う仲間はいたけれど、房原はいない。
埋めようのない、そんな子供じみた寂しさに、気付いてしまった。
いつも視界のなかにいて、いなければ淋しい。とても身近で、いつも目に入るけど、自分のものでは決してない。
東京タワーも、房原も、同じことだ。
いつもそこに、確かにある幸福。けれど、ただ見ていることしかできない寂しさ。ない交ぜの不思議な感情――。
牧瀬は、まだ二日酔いで重い頭を振った。
だめだ、早く通常モードに頭を切り替えなきゃ。あれは、一夜の過ちで、酔ったはずみ。お互い覚えてないことになっているし、なかったも同じ。――よし。
「あの、」
不意に後ろから声を掛けられて、牧瀬は飛び上がりそうになる。
「お風呂、お先でした」
振り向くと、濡れた髪のまま肩にバスタオルをかけて、房原が突っ立っていた。
「え、あー…、いいから、頭ちゃんと乾かしてこいよ。洗面所にドライヤーあったろう?」
「はあ。でも俺髪短いし、ほっとけばすぐ乾くから」
バスタオルで頭をがしがし拭きながら、へらっと笑う。
房原は、ガタイもよくて、顔だってよく見れば男前なのに、全然かっこよく見えない。それは偏に、不器用で鈍くさそうな雰囲気と、この情けない笑顔のせいだと牧瀬は思う。笑うと目は無くなるし、眉毛が下がってなぜかちょっと困ったような顔になる。自分でもマニアックだと思うが、牧瀬はこの笑顔に弱いのだ。ほんとは、抱きしめてよしよししたいくらいだ。出来ないけど。
「牧瀬さん?」
ついぼうっと見つめていた牧瀬に、房原が不思議そうな顔をする。
「あ、ああ、なんだ」
「シャワー、使って来てくれていいですよ?」
房原は道を空けるように、身体を横へずらしながら言った。
「うん…。いいよ、おまえが帰ってから浴びるから」
牧瀬は目を伏せてそう言うと、また窓の方に向き直った。しぜん房原に背を向ける格好になる。あからさまかなとは、思ったが、仕方がない。やっぱり昨夜の今朝では、そう簡単に気持ちを切り替えられなかった。早く、ひとりになりたい。
「…それって、もう帰れってことですか?」
少し硬くなった、声のトーン。振り返って房原の顔を見る勇気はなくて、牧瀬は黙って煙草に手を伸ばす。
「煙草は、やめて下さい。キスすると味するから」
ぼそっと、とんでもないことを言った房原に、牧瀬は銜えたばかりの煙草を吹き出した。
「な、なんだって?」
聞き違いかと、思わず振り返った。
「だから、俺煙草だめなんです。知ってるでしょ?」
「いや、その、今、キスって…」
「いいましたよ」
房原が平然という。牧瀬は一瞬言葉を失って、そのあと急に顔に血が上ってきた。顔を真っ赤にして怒鳴る。
「おまっ――、覚えてないんじゃなかったのか!!」
「って牧瀬さん、覚えてるんですか?」
不思議そうに言う房原に、牧瀬は思わず、しまったと言う表情で口元を押さえた。
「すみません! 俺、昨夜のこと全然覚えてなくて…。キス、とか。それ以上のこともいっぱいしたんですよね…」
「やめろって! もう忘れろっつったろ!」
牧瀬は真っ赤になって、遮る。
そんな風に言われたらいろいろ思い出してしまうだろうが!
「俺、悔しいです」
言葉通り悔しげに俯く房原に、牧瀬の胸はぎゅっと捕まれたように痛んだ。
そんなに、嫌なんだろうか。冗談にして流すこともできない、取り返しの付かないことをしてしまったのだろうか。
「せっかく、牧瀬さんと一緒に一夜を過ごしたのに。なんにも覚えてないなんて」
「へ?」
続く意外なセリフに、牧瀬は思わず顔を上げる。
「ちゃんと覚えておきたかったです。初めての夜のこと」
真顔で言われて、牧瀬は顔から火を噴きそうになる。初めての夜って、そんな言い方、よく恥ずかしげもなく…。絶句した牧瀬に構わず房原は続ける。
「すごく、もったいないです」
「もったいないって…。おまえ、俺と、その、男と寝ちゃって気持ち悪くないのか?」
思わず聞いた牧瀬に、房原が不思議そうに答える。
「やだったら、いくら酔ってたって出来ないと思いますよ。でも、相手が牧瀬さんじゃなかったら、多分男とは出来ないっす。俺」
そう言って、苦笑する。
「――酔ったはずみじゃないって、言ったら? 最初から下心ばりばりで、おまえを酔わせてこの部屋に連れ込んだって言ったら? それでも気持ち悪くないのか? 俺は、ほんとはちゃんと全部覚えてる。誘ったのは俺だよ」
気がつくと、牧瀬は言わなくてもいいことまで言っていた。このまま、うやむやにしてしまえば良かったのに、自分でもなんでこんな自虐的な気分になっているのか解らない。
房原は、ちょっとびっくりした顔で牧瀬を見つめた。そして、意外なことに嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ちょうど良かったですね。めでたく両思いだ」
「両思いって…」
「俺、牧瀬さんのこと好きですよ。きれいだし、仕事できるし、俺みたいな鈍くさい奴でも、見捨てずきっちり仕事教えてくれたし、いろいろ面倒みてくれたし、二年前名古屋へ行っちゃったときはなんだか見捨てられたみたいな気がして、すっげー淋しかったし。こうやって東京に戻ってきてくれて、めちゃくちゃ嬉しいです」
にこにこと本当に嬉しそうな房原に、牧瀬はなんだか身体から力が抜けた。
「それって、好きの種類が違うんじゃないか?」
「種類?」
「そう、エッチしたい種類の好きじゃないだろう? それ」
「んー、昨日まではそうでしたけど、実際やってみたらしい今となっては、それもありかなーと思うんですけど」
「そ、そんな簡単なもんなのか? もっと葛藤とか無いわけ? 俺たち男同士だし、俺はおまえの上司で、おまけに7つも年上なんだぞ? ――それとも、セックスフレンドとか、そういう意味の好きなのか?」
最後のセリフは、自分で言っておきながら、かなり滅入る考えだった。
「違いますよ! 種類とか、葛藤とかって、よくわからないですけど…、好きの度合いが一番強くなったってことでしょ? 特別ってことですよね。恋人同士ってことでしょ?」
なんの屈託もない顔で笑って言う。
「恋人同士…」
牧瀬は思わず、へたりこんでいた。なんか、一人で悶々と悩んでいた自分がばかみたいだと思った。こいつの思考回路って、なんでこんなにシンプルなんだ?
「牧瀬さん? まだ気持ち悪いんですか?」
急に床に座り込んでしまった牧瀬に、房原が心配そうに寄ってくる。主人に寄ってくる犬みたいな目で、牧瀬の顔を覗き込む。
「…お手」
牧瀬は思わず、膝をついてかがみ込んでいる房原の前に手を出した。
「??」
訳の分からない顔で、それでも条件反射のように、牧瀬の手の平に素直に手を置く。
そう、こいつって、考えて行動するんじゃなくて、本能で行動するタイプだった。差し出された手の理由を考えるより先に、掴んでしまう。でも、それは誰の手でもって訳じゃない。俺の手だからだ――。牧瀬は、やっとそう気付く。
そしてそのまま、房原の首筋にかじりつくように抱きついた。
「牧瀬さん?」
房原は、いきなりな牧瀬の行動に、戸惑いながらも支えるように腕を回す。
人間相手だと思うから、ややこしいのだ。犬と一緒だ。忠実で人なつっこくて、優しいゴールデンレトリーバー。そう思えば、歳の差とか、男同士とか、いろいろ面倒なことも考えなくてすむかもしれない。
牧瀬は、それがかなり強引な思いこみであることを自覚しつつも、そう思うことにした。
「じゃあ、――ずっと俺のそばにいるか?」
そのままの体勢でそう口にした牧瀬を、抱きしめる房原の腕が強くなった。
「はい」
顔は見えなくても、房原がいつものちょっと困ったような優しい笑顔になっていることが、牧瀬にはわかった。
窓の外には東京タワー。房原は、ここにいる。
こうやって触って、キスをして、抱き合って眠ることが出来る。
これ以上の幸せなんて、どこにある?
牧瀬は腕を緩めると、房原の顎に、唇に、キスをした。
―― fin
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