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沢崎って、絶対童貞だと思ってたのに。
そんな言葉が聞こえてきたのは、社員食堂に足を踏み入れてすぐだった。沢崎楓は、どうしたものかと動きを止める。
すごい余裕あるっぽく見えて実はピュアっぽいよね。確かに、この前も、ちょっと手が当たっただけで「ごめんね」って言われた。ていうか、男子のことは呼び捨てするのに、女子のことはさん付けなのが童貞っぽい。――会話はどんどん続いてゆく。終わるまで待っていると昼休憩が終わりそうだ。
「多分だけどさ、内緒話をするときは周りに気を付けた方がいいんじゃない?」
入り口に一番近い丸テーブルに陣取っていた同期の女子三人組。その背後から声を掛けると、彼女たちは一斉に振り返り、やばいという顔をした。
「さ……わざき、いやいや、沢崎って誠実そうだねって褒めてたの!」
「そうそう! ピュアだねーって」
「そっか、ならいいけど」
そう言い置いて、彼女たちの横を通り過ぎると、「ごめんって」と背中に声が掛かった。それには答えず、楓はトレイを取りに行く。親子丼を注文して社員証で支払い、テーブルを探していると、先程の同期女子三人組に手招きをされた。テーブルは四人掛けなので、こちらに来いということらしい。
「ねぇ、君たちに後ろめたさとか罪悪感っていうものはないの」
ため息を吐きながら椅子に掛けると、彼女たちは「うんだからごめんって」と全く反省していない様子で謝ってくる。「まぁいいけど」と楓は二度目のため息を吐いた。
「ねえ、沢崎、彼女いたの?」
訊いてきたのは斎藤だ。「いないよ」と答えると、須賀が言葉を重ねてきた。
「でも春田が見たって」
「そうそう」と、ちょうど真向かいに座っている春田がこちらに身を乗り出してくる。
「横浜の駅ビルで、すっごくキレーな人と一緒に歩いてた。沢崎にはもったいないくらいの」
その言葉に、「あぁ」と合点して頷いた。
「歩いてたと思うよ。でも残念ながら彼女じゃない。高校からの友達だよ」
そう言うと、「なーんだ」と斎藤がつまらなそうに頬杖を突いた。もう楓に興味を失くしたらしく、おもむろにスマホを扱いだす。
「てか沢崎、もったいないには怒んないの」
言った張本人の春田がそんなことを言ってきて、楓は苦笑した。
「だって、彼女が俺にもったいないくらい綺麗なのは確かだからね」
そう返すと、「ふーん、謙虚だねぇ」と春田がちらりとこちらに視線を投げる。それには気付かなかったことにして、楓は親子丼を口に運んだ。
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