7人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ
車窓
鈴村光
これが私の名前だ。
皮肉な名前だと自分でも思う。
なぜなら、私は光を感じ取ることができないからだ。つまり、目が見えない。
幼いころに目の病気を患い次第に視界がぼやけ、やがて暗闇になった。
久しぶりに両親に連れられ、病院へ行った。どうやら症状が悪化しているらしく、即入院ということになった。入院期間は一か月程らしい。
悪化も何も私にとっては真っ暗闇なのだから、どちらにしろ関係ないと思った。もう目が見えることはない。移植すれば見えるようになるかもしれないが、そんなお金はないし、まず、ドナーなんて見つかる筈もない。
入院のお陰で高校二年生の夏休みを私は閉鎖的な病院の中で過ごすことになった。
病院で過ごす夏休みは退屈だった。
毎日、病室でテレビの音だけ聞いているのにも飽きたので、私は看護師に自販機のある休憩スペースに連れて行ってもらった。
休憩スペースには人の気配はなかった。私は一人になりたいと看護師に頼み席を外してもらった。
恐らく窓があるであろう方向に目を向けると視界が少しオレンジ色に染まった。
私の瞳は、辛うじて強い光を認識できる。
先程、5時を告げるチャイムが聞こえていたので、恐らく私の目の前にはオレンジ色の夏の夕焼けが広がっているのだろう。
大きなため息が出た。
夕焼けが見えないからじゃない。高校二年の夏休みだというのにこんな病院に閉じ込められてることに、ため息が出た。
きっと私と同世代の高校生たちは様々な夏を過ごすのだろう。花火を見に行ったり、涼しい映画館で映画を見たり、海に行きイケメンを見つけたりしているのだろう。光と色で溢れた夏を楽しむのだろう。私にはどれもできない事ばかりだ。結局、入院していようがしていまいが変わりはないのだ。私は景色を見られない。色のない夏、光のない人生だ。モノクロどころか真っ暗だ。
そんなことを考えていたらまた、ため息が出た。
「そんな大きなため息をついたら、幸せが逃げますよ」
後ろから突然声がした。落ち着いた透き通る優しい男の声だった。
「幸せは、もう私の元から全部逃げていきましたよ」
私は自嘲しながら答えた。
「本当にそうかな。僕にはそんな風には見えないけど」
「どう見たって不幸ですよ。私、目が見えないんですよ」
男は少しも怯んだ様子もなく言葉を返して来た。
「それは大変つらいね」
私が何度も何度もかけられた同情の言葉だ。親にも、近所のおばさんにも、学校の先生にも。
同情は悪い事ではないと思う。実際、目の見えない人間に他人がしてあげられることなんて、同情ぐらいだ。
「同情ありがとうございます」
「君は綺麗な景色が見たいと思う?」
「それはもちろん。まあ無理ですけどね」
幼い頃、まだ目が光を感じ取れた時に私は様々な景色を見た。
「僕が見せてあげるよ」
「からかってるんですか。怒りますよ」
少し強い口調で私は言った。
この男は何を言っているのだろう。私の目が見えるようになるのは不可能に近い。魔法使いでもない限りそんなことはできない。
「そんなに怒らないで。物は試しさ。目が見えなくたって景色は見えるさ。目を瞑ってごらん」
私は呆れて返す言葉すら見つからなかった。もういっそ、この男の指示に従ってやろうと開き直った。
オレンジ色の視界が、闇に包まれる。
「何をするつもりですか?」
「今から僕の言う言葉を想像してみて」
男は得意げに言った。
「では行くよ。君は新緑の森の中を走る電車に乗っている。古い電車だ。君以外は数人の乗客しかいない。車窓からは木漏れ日がシャワーみたいに降り注いでいる。君は初夏の風を浴びたくてゆっくりと窓を開ける」
私は息を呑んだ。彼の言葉が光になり暗闇で絵を描いているみたいだった。
「軋みながら窓が開く。すると列車のリズミカルな音がより大きくなる。夏木立の間を抜けてくる風は心地よく、いろいろな香りを運んでくる。土の湿っぽい香り、乾いた太陽の香り、電車の油の匂い、そのすべてが心地いい。しばらくすると視界が開けた。鉄橋に差し掛かったようだ。下では透明な水がキラキラと陽光を反射しながら流れている。空を見上げると誰かが描いたような長い飛行機雲がどこまでも伸びていた。鉄橋を抜けると電車はゆっくりとトンネルへ入っていった」
暗闇に戻ってきた。
病院の消毒液の匂いで病院にいることを思い出した。それまで本当に電車に乗っているような感覚だった。
電車の中の温度や森の匂い、温かい光の中に私はいた。
私は言葉にこれ程の力があるとは思っていなかった。
「おしまい。どう?綺麗な景色見られた」
「すごい。本当に」
「なんでこんなに綺麗に言葉を紡げるんですか」
「実は少し詩を書いていてね。でも綺麗な景色が見れたのは、僕の言葉じゃなくて君の想像力が豊かだからだよ」
「詩書きさんですか、憧れますね。私はただあなたの言葉を聞いていただけですよ。言葉は磨かれるとこんなにも光るものなんですね」
敬意を払って彼に言った。
「ありがとう。まあ、偽物の光だけどね。じゃあ、僕はそろそろ戻らなきゃ」
そう言うと彼の足音は遠ざかって行った。
私は慌てて呼び止めた。
「あの、もしよかったらまた聞かせてくれませんか。聞きたいときここで待ってますから、私8月中はずっと入院で退屈なんです」
「うん、もちろん。また見せてあげるよ」
そう言い残すと彼はどこかへ行ってしまった。
少しすると看護師が来て私は病室に戻った。
ベットに入っても彼の言葉が作った偽物の光が瞼の裏側で淡く残っていた。
最初のコメントを投稿しよう!