君に光を、祝福を

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 学校帰りの電車で私は本を読む。文字だけで構成される物語は窓に写る色々な四角形を眺めているよりずっと楽しい。勉強にもなる。この小説によると、世界の終わりみたいな赤色をした夕焼けがあるらしい。どんな色なんだ、それ。 「……駅。お出口は、左側です」  降りる駅の名前が耳に入り、本を鞄にしまった。ついでにスマホの画面を点灯させて時計を確認する。六時四十七分。いつも通りだ。  ホームの自動販売機に温かいミルクティーが見え、足を止める。三秒迷ってから二つ購入した。天気予報で今年一番の寒さと言っていたくらいだ。少しの贅沢は許そう。  改札に近づくと滑らかなスケールが聞こえてきた。 「おかえり」 「うん、ただいま」  顔馴染みの駅員さんに出迎えられながら定期で改札を抜ける。構内に響くピアノはスケールからバッハのメヌエットへ。彼が指を慣らすために弾く曲だ。幼稚園の頃に習ったから指が覚えていると言っていたっけ。  壁に寄りかかってペキペキとキャップを捻った。ミルクティー色という名称は他に言い方がなかったのだろうか。紅いお茶に白い牛乳を混ぜた色。そんなに不思議な色になるとは思えないけれど。まぁ、この飲み物がおいしいことに変わりはないから、いいか。  繰り返しを省いた彼のメヌエットは一分もかからず終わりを迎える。あと三小節。  ふわりと手首が浮いて鍵盤が所定の高さに揃う。小さく拍手を送りながら近づくと制服の背中が振り向いた。長い前髪のせいで彼の表情はわかりづらいが、笑っているはずだ。口元が弧を描いているから。 「今日も来てくれたんだ。ありがとう」  聴きたいと思ったから間に合う電車に乗って、少し長く駅にいるだけ。お礼を言われることじゃない。  そう思うものの、アーティストのライブに行けば「ありがとう」と言われることは珍しくない。そういう文化なのだろう。文化でなかったとしても「ありがとう」に「礼はいらない」なんて返されたら気持ち良くはない。  代わりに、自販機で買ったもうひとつのペットボトルを取り出す。 「自販機で買ったミルクティー。懐炉にするか水分にするかは、任せる」 「いいの?」 「よくなかったら渡さない」 「ははっ、そりゃそうか。ありがとね。いただきます」  さっきまで鍵盤を踊っていた指が唇にペットボトルを当てた。すっと通った鼻筋に薄い唇、紅茶を飲み込む度に動く喉仏。相変わらず惚れ惚れするほど美しい線だ。そっと息を吐く。鬱陶しい前髪を切れば、絶対モテるのに。  両手でボトルを抱えて手を温めながら、彼がこちらを向く。 「ミルクティーのお礼に君の好きな曲を弾くよ。何がいい?」  いいの? 聞き返そうとして口を噤む。さっき私が言ったばかりの台詞を返されるだろう。「よくなかったら言わない」と。 「夜の曲がいいな。星とか、月とか」 「夜、星、月か。ノクターンか月光か……あ、そうだ」ペットボトルを足元の鞄に入れた彼は、両手を鍵盤に走らせ私に問う。「モーツァルトのきらきら星変奏曲はどう?」  キリの良いところで演奏をやめた彼に、笑顔を見せる。 「やった。その曲、好きなんだ」  誰もが知っているメロディが様々な形にアレンジされた曲。元はフランスの恋の歌だったっけ。彼に聞いたら詳しく教えてくれるだろうけど、残念ながらそんな時間はない。  ぽっぽ、ぽっぽと鳩時計が七時を知らせた。 「じゃあ、楽しませてもらうね」 「ん、期待してて。後悔はさせないから」  その場を離れ、ひんやりと冷たい木の壁に体を預ける。ここから彼と観客を眺めるのが私のお気に入りだ。ほら、人が集まってきた。一人、二人……寒いのによく来るな。自分を棚に上げて思ってしまう。  集まった観客に一礼した彼は、十の指と鍵盤で楽しそうに遊び始める。 ──きらきらひかる、おそらの星よ  奏でられる美しいきらきら星に、酔いしれた。
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