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俺の前に三人の面接官が座っていた。その真中の40歳ぐらいの上司が、俺の履歴書を見て言った。
「あけちみつひで?」
透かさず俺は、違います、と否定しおうとしたら
「あけちみつひで、ですか」
上司の右隣の部下が、刺々しく言った。すると、
「あけちみつひでですか」
上司を挟んで左隣の部下が、口元にフッと笑みを浮かべて言った。
こんな事は度々ある。ある時は、
「あけち様、あけちみつひで様」
呼ぶ声に棘はない。
「あけちさん、あけちみつひでさん」
呼んでいる声に棘が有り過ぎて剥き出し。
「あきともこうしゅん様、いらっしゃいますか」
普通に呼ばれて、
「はい」
と、俺は驚いて待合椅子から飛び上がった。本名で呼ばれることなんて皆無に等しいからだ。
俺の名前は、明智光秀と書いてあきちこうしゅんと呼ぶ。呼び名は違っても漢字が同じならば間違うであろうと気遣い、常にルビを打っているのだが、なぜか、誰しもがフリナガを見ようとはせずにあけちみつひでと呼ぶ。それは子供の頃から常に付き纏った。
本名で呼ばれることがなかった子供の頃は、懸命にそれを否定し本名を告げていたが、本能寺で織田信長を暗殺したのは明智光秀だと知ってからは、その名で呼ばれることを否定しなくなり、それどころか、人は彼をどういう人間だと思っているのか呼ぶ声だけで判断するようになってしまった。
それでは、人は何を持って、明智光秀という歴史人物を評価し判断しているのか。
本能寺で織田信長に刃をむけその生命を閉ざしたのは明智光秀で事実は変わらないし、真実でもある。だが、そこに至るまでの真実はどちらの側から描かれたものかによって大きく変わってくる。
織田信長にスポットライトをあてれば、信長は光になり、明智光秀は影となる。逆に、明智光秀にスポットライトをあてるならば、光秀は光となり、織田信長は影となる。
このように事実は一つだが、真実はライトを当て方によっては変化をきたし、一つとは限らなくなる。人は事実は事実として認めながらも、一つとは限らない真実の中で明智光秀の人となりを判断し評価しているのであろう。そして、その結果、好むか好まないかに分かれていくのであろう。
『明智光秀』
その漢字は同じだが、呼び方が全く違ったものとなる。
あけちみつひで。そう呼ばれる度に光を感じ、
あきともこうしゅん。そう呼ばれると影を感じる。
しかし、それはどちらも名前に過ぎないのだ。
その名に恥じぬように、そんな言葉があるが、しかしそれは、名前がなければ区別がつかないから区別をつけるためにつけられた名前に過ぎないのだ。明智光秀をどちらの名で呼ばれようと、紛れもなく、俺は俺なのだ。
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