1人が本棚に入れています
本棚に追加
「魚」の真実
自分の肉の焼かれる匂いに胸やけがする。私を誘拐した「漁師」と書かれたマスクの人物は、フライパンの上で悶える私を冷ややかに見ていたが、ようやく口を開いた。
「誰しもが多かれ少なかれ罪を背負って生きているものだ」
変声機でも付けているのか、機械的な声のせいで相手が誰なのかは分からない。
「漁師」は続ける。
「そしてほとんどの罪は無視され、いずれ忘却される。いや忘却され続ける罪の集積こそ、人生であるともいえるだろう。だが場合によっては絶対に捌かねばならぬ人の道を外した鬼畜の所業というものもある」
私は必死に跳ねた。
「私がその対象だというのか」
「そうだ。例えば・・・」
モールス信号が伝わったので交渉の余地はあるという安堵感は、「漁師」が、「例えば・・・」と続けた、私の、捌かれなった前科の数々の暴露への嫌悪感と羞恥心にかき消された。
その暴露は私の経歴に沿って語られた。
12歳 魚で初めて裏口入学によって私立の中学校に入学した。
14歳 魚で初めてカンニングによって模試(現代文)で全国10位以内となった。
15歳 魚で初めて校長への恐喝によって私立の高校に特待生として入学した。
17歳 魚で初めて既存のメンバーに毒を盛ることでバスケットボール部のレギュラーとなった。
18歳 魚で初めて売春行為を暴露すると脅しマネージャーと交際した。
18歳 審判を買収したことによって、バスケットボール部が、魚をキャプテンとしてからは初となる県大会優勝を果たした。
18歳 魚で初めて校長への枕営業によって早稲田大学に入学した。
20歳 魚で初めてレイプで既成事実を作りミス青山大学と交際した。
23歳 魚で初めて社長の娘を人質にSONYの営業マンとなった。
24歳 魚で初めて・・・
俺はそこで耐えきれなくなり、油の中を跳ねまわった。
「私はどのような手段を取ったとしても、幸福に生きようとしただけだ。自分のアプリオリな障害を乗り越えて、既に幸福を持って生まれた人間よりも幸福になろうと思っただけだ。確かに人間の幸福を魚である私が奪い取ったが、それは競争社会において結果的にそうなっただけであり、仕方がなかったことだ」
私は雄弁を振るっていたが、「漁師」の笑い声に意表を突かれ止めざるを得なかった。
「お前の罪とはそこにある」
「漁師」はそう言った。
「どうゆうことだ?」
「自分のことを魚だと認識し、魚として振る舞い、その見事な魚っぷりで周囲の人間を騙し続けたのがお前の罪だ」
そう言うと、「漁師」はそのマスクを外した。そこには私の母親がいた。
「だが私だけは騙されない。お前が自分自身すら騙していたとしても。産みの親の目は誤魔化せない」
私はその眼差しによって、ようやく自分自身にかけた錯覚を解かざるを得なくなった。私は人間だったのだ。
ヘレンケラーの自伝を読んだ小学三年生の私は、彼女の障害を羨んだ。自分に何の障害もないのを恨んだ。高い壁を乗り越える悲劇のヒーローとして周囲に認められたかった。だから私は次の日から魚となった。全裸になって床に寝そべり、目を見開いて跳ね続けた。私は自分自身を魚と思い込み、やがて周囲の人間も私の迫真の演技に巻き込まれ私を魚だと信じた。入試、部活、恋愛、入社、全ての回想で私は裸で跳ねるただの人間だった。
体の熱が調理によるものなのか、それとも自ら発しているものなのかが分からなくなった。私は、巨大なフライパンから下りた。魚は死んだのだった。
最初のコメントを投稿しよう!